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2010年5月31日

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって23

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって23


先輩でもあり、鍛金のスジミチ やRAVEPORTEで一緒に活動していた関井一夫さんの学術論文を本人の許可のもとに連続掲載します。

出典:多摩美術大学研究紀要第20号 2005年掲載

3-10.金工の埋蔵物

 日本の金属工芸における、技術による分類と技法の定義付けは、整然と構築されたもののように見える。しかし、今、鍛金に限って述べるとすれば、必ずしも整然と構築されているとは 言い切れない矛盾点がある。そして、この矛盾点から探り直してみると、この技術の歴史的な背景や、金属物質としての差異から生じる加工成形技術の理路の違いが、改めて認識できるのである。更に造形が、技術・技巧や素材に揺り動かされてきた側面が伺える。また技術(technology)というものは、純粋に合理的なものであるが、工芸における伝承や加工技術(tech-nique)にも、合理的な部分が存在するのである。

芸術表現は、第一義的には表現された内容に関心が向くのであって、表現物がどう作られたかという事は、二次的な事柄とされる。しかし我々は、表現の為に用意されたモノからこそ内容を知るのである。また芸術表現は、社会とその中に存在する表現者によって変化する。それは言葉と同様に時代により変わる生きもののようである。しかし一方で、その表現に普遍性を求めようとするのも事実である。これは造形表現にとっても同様である。形を作るという意味では、第一義的な表現と二次的な作り方の関係は、より密接なものと言える。

冒頭で「造形思想という面以外に、技法・技術といった断面からも、新たな世界観を具現化する起爆剤が起こりうるのであ る」と述べたが、これは技法・技術、また素材という面のみから起こりうるのではない。社会、またその中に在る人と共に起 動する事で起こりうる。「金工の埋蔵物たち」は、その事を暗示しているのである。


おわりに

職人的な伝承で生き残った古の「湯床吹き」を、科学を利用して解き明かそうとした時に、改めて人の知恵を感ずる。それは一人二人の問題ではなく、千年以上の時の中での事である。 科学という概念のない時代に、純粋に技術を求めた結果、摂理に辿り着き、材料作りに限らず、加工技術も含めて、伝承方法や製造過程では、人間の五感を頼りとしていた。

 この五感を伴う感覚は、現在の我々の芸術領域の感覚に近い。強いて述べれば、美術領域の中では、最も身体で造形過程を体 感しながら制作する、工芸領域に共通する感覚である。自らの制作から呼応しても、自己の思念の産物が鎚を振り降ろし、当 て金と銅板から発する音や振動で、金属板の延展状態を感じ、徐々に変形してゆく様を、視覚や手の触覚で認識しながら進め る過程は、自己の身体感覚を基準としない限り、なんの判断もありえないのである。

誰も、結晶面の滑り状態を知覚しながら、絞り作業は行ってはいない。目の前の素材の動きと、道具を伝い僅かに感じる素材の変化から、自らの形を律するのである。


主要参考文献

・香取秀眞『日本金工史』藤森書店、1932年
・香取秀眞「金工史談」国書刊行会、1976年
・藤本長邦・松本外茂次「鎚起の沿革」日本鍛金工芸会、1966年
・松本外茂次『鎚起の沿革・第2号』日本鍛金工芸会、2000年
・遠藤元男・小ロハ郎「日本の伝統技術と職人(金属表面技術史)』槙書店、1975年
・高島俊男「漢字と日本人」文芸春秋、2001年
・伊藤廣利「素材の云い分一一木目金制作を通して」東京芸術大学美術教育研究会、1995年
・西川精一『新版・金属工学入門』アグネ技術センター、2001年
・西川精一『金属を知る』丸善株式会社、1995年
・新山英輔「金属の凝固を知る」丸善株式会社、1998年
・宮長文吾・鈴木健司「熱処理技術の選択」地人書館、1994年
・今井典子「住友銅吹所と大阪--技術とオランダ商館長応接をめぐって」『ヒストリア』第176号、大阪歴史学会、2001年
・磯崎康彦・吉田千鶴子「東京美術学校の歴史」日本文教出版、1977年
・関井一夫・田中千絵「造形技術としての「鍛金」の周辺」「Art&Craft forum」vol.9-12、東京テキスタイル研究所、1997-98年
・展覧会図録「よみがえる銅・南蛮吹きと住友銅吹所」大阪歴史博物館、2003年
・展覧会図録「鉄打出・山田宋美の世界・展」加賀市地城振興事業団、2003年


『金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって』は、今回で終了です。
後日、まとめてサイトのほうへ掲載します。

2010年5月28日

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって22

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって22


先輩でもあり、鍛金のスジミチ やRAVEPORTEで一緒に活動していた関井一夫さんの学術論文を本人の許可のもとに連続掲載します。

出典:多摩美術大学研究紀要第20号 2005年掲載


3-9.感覚的伝承法

 この技術がどこで生まれ、どのように伝わったのか、現在のところは判らない。しかし「湯床」の存在が,奈良時代まで遡るのであれば、大陸から伝わった技術と考えてよいだろう。そうであるなら、異なる文化言語間で伝承される場合、身体を基準とする尺度で伝承する事が、最も正確であったのではなかろうか。

先の逸話のように、同じ言語圏でも常用する数値単位の勘違いで問題が生ずるのであれば、異なる言語同士では、誤認する可能性が更に高い。握り拳ひとつ分という表現は、人間の個体差はあるものの、その個体差と数値単位の誤差を比較するならば、実は合理的な伝承基準値とも言えるのである。

更に、木目金制作で最も重要な金属板同士の鍛接の際に金属が「汗をかいたようになるからよく見ておけ」と教えられた。 「自分の目で見て覚えろ」という伝え方は、職人の技術伝承と同じである。しかし、美術領域の人間には、その言葉の意味に、我々がデッサンをする時に最も基本とする、丁寧によく観察する事で、モノの本質をとらえるという、多角的な客観視が提示されている事を理解できるのであろう。この多角的な客観視点は、近代西洋科学的な視点でもある。

科学や分類、また学問という世界は、共通認識の為に共通概念としての数値化を行うが、科学という概念の存在しない時代では、その伝達上での誤りの回避を、身体感覚で伝えていたという事である。



続く

2010年5月23日

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって21

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって21


先輩でもあり、鍛金のスジミチやRAVEPORTEで一緒に活動していた関井一夫さんの学術論文を本人の許可のもとに連続掲載します。

出典:多摩美術大学研究紀要第20号 2005年掲載

 3-8.伝承の検証・水深について

 熔融金属と水の反応として、水蒸気爆発が心配される。水深を3寸ではなく、3cmとして熔融銅を流し込んだ為に、蒸気爆発を起こしたという逸話がある。今回水深を約1寸として追加実験を行った。

通常は湯床を完全に水中に沈める為、湯床内の水は周囲から供給されるが、この実験では湯床内の水は湯床外から供給されないようにした(図26)。
図26 水深比較図解

熔湯の投入直後の瞬間に、熔融金属が暴れる状態はあったが、飛散する現象は起きなかった(図27)。

図27 水深1寸での投入直後の状態

しかし熔湯上の水は徐々に蒸発し消滅して、上面の冷却媒は途中から空気となった (図28)。
図28 湯床上の水分蒸発


断面は研磨するまでもなく、内部に発生した巣が確認できた(図29)。
図29  水深1寸の銅断面

今回は500g用の湯床に、400gの熔湯を投入したので、湯床の大きさに余裕があった。仮定であるが、この湯床サイズに対して熔湯量を多くした場合、熔湯上の水の消滅は、加速されると考えられる。湯床吹きでの水蒸気爆発の可能性は、限定された枠内の水量に対しての、熔湯の量によると考えられる。

熔融金属と水の反応で起きる水蒸気爆発は、大量の熔湯に対して少量の水で起きる。これは通常赤橙色に熱した鉄を、濡らした鉄床上で叩くと、バンッという爆発音をたてて、酸化被膜が飛び散る状態からも明らかである。

かつて、どの程度の量の熔湯を、湯床を用いて凝固させたかわからないが、水深の定義は、あくまでも限定された湯床内の熔湯上面の水深を、3寸確保すれば、爆発状態は起こらない、という事を伝えているのではないだろうか。

2010年5月13日

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって20

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって20

先輩でもあり、鍛金のスジミチやRAVEPORTEで一緒に活動していた関井一夫さんの学術論文を本人の許可のもとに連続掲載します。

出 典:多摩美術大学研究紀要第20号 2005年掲載

3-7.伝承の検証・水温について

 湯床吹き作業は、感覚を交えて伝承されてきた為か、表現に不明瞭なところが多い。例えば、水面から床までの高さ(水深)は「握り拳ひとつ分」、お湯の温度は「手を入れて我慢できるぎりぎりくらい」と伝えられた。 (16)

水深について三井氏の講義では、床までの水深を三寸としている。握り拳をどちらから測っても、確かにおおよそ3寸にはなる。しかし、この握り拳を数値として厳密にとらえようとすると、人の個体差の範囲での誤差が生じる。数値という絶対基準が優先するので、三寸は三寸一分ではなく、一分を誤差とするのである。お湯の温度も「手を入れて我慢できるぎりぎりくらい」と言われても個人差がある。そこで冒頭に述べた風呂が 関係する。人間が一般的に我慢できるお湯の温度を、入浴時の温度を基準にして45°Cとした。

これらの伝承の論証に際し、改めて以下の実験を行った。

実験材は、市販の銅および銀を「イ:銅75%・銀25%」の 色金、「ロ:銅100%」各300gとして、それぞれ異なる水温で凝固 させた。

湯床寸法は、直径120mm・高さ55mm・布から枠上まで 30mm、通常500g用としている湯床を使用。布も通常使用している帆布を用いた。冷却媒も通常の水道水である。イは30°C・48°C・60°C・80°C、ロは25°C・30°C・40°C・50 °C・60°C・80°C・90°Cの湯の温度で凝固させ、それぞれ断面観察した(図21-25)。

↑図21  銅75% ・銀25% ・断面の水温差による比較 左から30℃ ・48℃・60℃・80℃の断面。写真のように30℃と48℃の間で内部の巣の状態が明らかに異なる。
↑図22 銅100%:断面の水温差による比較
左から25℃・30℃・40℃・50℃・60℃・80℃・90℃の断面。図21ほどの歴然とした差はないものの、同様に40℃と50℃の間に差がみられる。

↑図23 銅・水温25℃の外観
↑図24 銅・水温50℃の外観

↑図25 銅・水温90℃の外観 表面外観比較から25℃・90℃は、他の温度帯とは異なる状態である。

ここから、お湯の温度の表現は、45°C程度以上から80°C程度以下とする事ができる。45°C以下では内部の状態が悪く、沸点に近くても好結果は得られない。

「手を入れて我慢できる?」「指を差し込んだ時?」という表現は、水温の最低温度を表すものと考える。上記の温度帯であれば、厳密には差異があるものの、打ち延べ加工としてはおおよそ可能な材料である。沸騰したお湯ではない、熱いお湯の定義付けとして、体感する温度で表現したのである。

註(16)伊藤氏は、お湯の温度について、後に「指を差し込んだ時、湯面と接する部分が熱く感じる程度」と紹介している(伊藤廣利『素材の云い分』)。

2010年5月1日

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって19

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって19

先輩でもあり、鍛金のスジミチやRAVEPORTEで一緒に活動していた関井一夫さんの学術論文を本人の許可のもとに連続掲載します。

出 典:多摩美術大学研究紀要第20号 2005年掲載

3-6. 何故? 湯の中に流し込んだのか

高温の金属を水中に投入する技術として、先に述べた「鉄の焼き入れ」技術がある。金属工芸分野での焼き入れには、冷却媒として、水・油を用いる事が一般的である。

鋼のオーテスナイト領域から急冷して、マルテンサイトを形成する熱処理である焼き入れは、マルテンサイト化が、鋼の内外で一様に行われる事が理想的である。マルテンサイト化が鋼の内外で一様に行われるという事は、材料の表面と中心部の温度差ができるだけ小さい状態に保たれながら、マルテンサイト化が進行するという事である。

金属工学上からこの現象は、以下のような解説がされている。 「オーテスナイト領域に達した鋼を一般的な水に投入すると、鋼材と冷却媒の界面に蒸気膜が発生し、この蒸気膜を介しての冷却速度は非常に小さく、600°C付近では蒸気膜が安定して焼きが入りにくい。その後、蒸気膜が局部的に破壊され、表面から気泡となってガスは散逸し、更に、鋼材中の熱量は、冷却媒の気化熱と激しい対流作用により奪われるので、冷却能は最大になり、鋼の焼き入れに必要な500°Cまでの急冷が可能になり、鋼はマルテンサイトに変移する。その後気泡の発生はなくなり、通常の対流と冷却媒への熱伝導のみの冷却になり、冷却速度は再び小さくなる(図17)」

図17 水中における鋼塊の冷却曲線(出展:西川精一「新版 金属工学入門」p.257)

この鋼の焼き入れ時の冷却媒の状態は、「湯床吹き」時の冷却媒の状態と酷似している。銅は面心立方晶であるから、鉄のように固体状態で結晶構造が変化する事はなく、焼き入れという現象が起こる事はないが、高温からの冷却という点では、同様な冷却状態が起きると考えられる。

熔融銅を水中に投入した場合に、まず銅表面に水蒸気膜が発生する。この水蒸気膜により、銅は直接水に触れる事なく凝固を始める。水蒸気膜は時間と共に破壊されるが、ある一定時間、 熔融銅表面の凝固を遅らせ、表面部と内部の凝固速度を近づけつつ冷却、外面部と内部の冷却ずれによる内部のヒケが抑えられ、巣が発生しにくい状態が作り出せると考えられるのである。

熔銅の水中投入を視認すると、湯床上で激しく水蒸気の細い泡を発生しながら凝固を始める。熔湯状態から、10秒程度で熔銅の表面は金属銅色に変化し、表面に泡状の膨らみを作りながら内部から気体を放出する(図18)。この膨らみは気体が放出されると消滅し、しばらくこの状態を繰り返した後沈静化し、表面が凝固したと思える頃に、銅塊から一気に細い気体の泡が噴き出す。

図18 熔融銅からのガス放出

湯床の構造上から、湯床自体が桶中で桶に接しているのは、湯床の脚底の部分だけである(図19)。湯床を用いずに、桶のお湯の中に熔融銅を投入すると、熔融銅は桶底部との間に水蒸気膜を発生させながら、桶底に直に接する事になり、発生した水蒸気やガスは逃げ場がなく、熔融銅を上方に押し上げる事になる(図20)。しかし、布を一枚敷く事だけでも、発生する気体の逃げ場が生まれる。



図19 湯床内部図解

図20 底部に溜まったガスに押し上げられた銅材

湯床の中での熔融銅は布と接しており、床内では水蒸気の逃げ場は確保されている。そして周囲の湯を攬絆する事により、 急冷時の対流作用を補助し冷却能を促進させ潜熱を吸収し、全体をより早く凝固させるのである。

2010年4月16日

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって18

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって18

先輩でもあり、鍛金のスジミチやRAVEPORTEで一緒に活動していた関井一夫さんの学術論文を本人の許可のもとに連続掲載します。

出 典:多摩美術大学研究紀要第20号 2005年掲載


3-5.打ち延べに適した材料

板状の薄い金属を作る、または、更に複雑な形状に加工しようとした時に、鋳銅品のように凝固させた銅ではなく、打ち延べに適した銅材の必要が生まれた。

鋳造物では、合金が熔融から凝固に至る過程で発生するガスを抜く為に、砂を固めた型を用いる。ガスは細い砂の間から型外に放出されるが、金属内部に引け巣という空洞や組織内の細い孔が存在する。つまり内部は荒い組織になっている。この大小の空洞は、一般的に焼鈍を繰り返し打ち延べても、なくなるものではない。金属をくりかえし打ち、厚さが薄くなるにつれ、焼鈍時に孔内部の空気の熱膨張により膨らみ、その存在が成形上厄介な問題点となる。

打ち延べに適した金属は、内部の巣の発生が抑えられたものであるとも言える。打ち物に適した金属塊であるか否かの境目は、その金属の凝固の過程にある。

熔融金属は冷却する事で凝固するが、その為には、熔融金属内の熱を吸収する冷却媒が必要である。前述の鋳物の場合では、この冷却媒は型の原料である砂である。地面の上に熔湯を流した場合は、地面と大気が冷却媒である.湯床吹きでは、この冷却媒を水(湯)としたのである。

通常凝固の過程では、まず冷却媒に触れる熔融金属の表面部が凝固し、その後に金属内部が凝固する。液体状に熔融した金属が固体状に凝固する時に、凝固収縮という体積収縮が起きる。これは鋳造物で「引け」と呼ばれるもので、その結果鋳造物は原型より一回り小さくなり、また金属内部に引け巣という孔が生じる。表面が先に凝固するという事は、先に外枠が決定された後に内部が凝固し、体積収縮を起こすので、結果として内部に巣が発生するのである。すなわち、打ち延べに適した状態に凝固させる為には、表面と内部の凝固速度を近づける必要がある。


続く

2010年4月7日

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって17

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって17

先輩でもあり、鍛金のスジミチやRAVEPORTEで一緒に活動していた関井一夫さんの学術論文を本人の許可のもとに連続掲載しま す。

出典:多摩美術大学研究紀要第20号 2005年掲載


3-4.忘れられた技術

 湯床吹きは、その工程は伝承されていても、何故そのような方法をとるべきかという原理は伝承されてはいない。科学という概念すらない時代に、徒弟制度の中で伝えられた技術であるから、「何故」という疑問を持ったとしても知る由もなかったのである。また、銅材料製品として見るなら、金属自体の質には殆ど影響しない最終工程の技術である。科学的根拠も明確で、生産力に勝る西洋精練術が支配する中、発祥や伝承経路も定かではないこの技術は、おのずと研究対象にもならなかったのであろうか.

あえて製品としての特徴を挙げるなら、珍重されたという独特の赤色を持つ表面の亜酸化銅の色彩であろう。しかし、生産性を第一に置く近代精銅業界では、そのような好事家の対象になるような点は問題にもならず、いつしか歴史の中に埋もれていったのであろう。

ここで湯床吹き工程を紹介する。材料は現在市販されている高純度の電気銅片としている。湯床吹きは、以下のような工程で行う。

1 炉を造る。今回の炉は最も簡易的な七輪を用いて、補強と炉 の大きさを得る為に、耐火レンガを補助的に使用する(図11)。


2 鞴に代わり、コンデンサー付き電動ブロワーを使用し、風力を調整する。

3 燃料は、着火の為の炭と主燃料のコークスを用いる(図12)。



4 坩堝は、黒鉛坩堝を使用。脱酸材として、糠を菜種油で練ったものを坩堝内に貼り付ける。銅片は、半端になって処分するものを細かく切り溶融しやすくする。湯床は、銅板を円筒形に加工し、その内側に帆布を張る(図13)。


5 湯床は、金盥(たらい)にお湯を張った中に沈める。床から湯面までは 3寸(約9cm)。水温は45°C程度(図14)。

6 銅が熔解したら炉から出し、様子を見て一気に床に流し込む (図15)。


7 お湯をゆっくり攬絆し、凝固を待つ。

8 銅の吹き上がりを待ち、床ごと取り出す(図16)。





続く

2010年4月1日

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって16

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって16

先輩でもあり、鍛金のスジミチやRAVEPORTEで一緒に活動していた関井一夫さんの学術論文を本人の許可のもとに連続掲載しま す。

出典:多摩美術大学研究紀要第20号 2005年掲載

3-3.湯床吹きは何故生き残ったのか

「湯床吹き」は、東京美術学校の時代から東京藝術大学鍛金研究室の一部で伝承されていた。論者は、三井安蘇夫氏から伊藤廣利氏(14)に直伝されたものを、伊藤氏に教授願った。また三井氏は、同学大学院鍛金専攻学生を対象とした「工芸制作法」という講義の中で、その技術を紹介していた。

東京美術学校で「湯床吹き」が伝承された主な目的は、色金製造にあったと言える。色金とは、異なる金属を合わせ熔融して作り出す、純金属とは異なる色を持つ合金属である。代表的な色金には、銅に約25%の銀を混合した「四分一(しぶいち)」、銅に約4%の金を混合した「赤銅(しゃくどう)」等がある。色金は、金属工芸における色彩表現の幅を広げるものであった。

西欧の精練技術が導入され、工業製品として伸銅材等が製造販売され始めた明治期に、あえて旧物である「湯床吹き」を同校で保存伝承したのは、この色金製造技術の継承を目的としたものに他ならない。美術学校の使命の中に、日本の伝統技術の保存があったとしても、技術そのものが、工学的な学問の対象とする理由で残されたとは考えにくい。また工芸品が手工業品として有効な輸出品としての役割を失うと共に、工業の仲間に入れなかった特殊な色金を製造する「湯床吹き」技術には、科学のメスが入らぬままに、ほぼ古の原型を留めたままの手法で伝承されたと考えられる。

東京美術学校では、あくまでも美術工芸品の制作を前提とし、伸銅工業品とならなかった色金を作る為に、「湯床吹き」が保存伝承されたのである.

註:(14)昭和38年(1963)東京美術学校工芸科鍛金部卒業,東京畿術大学教授,平成 11年(1999)没.


続く

追記
下記エントリーで註釈が抜けていました。大変失礼しました。

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって11
2.素材と技術から変わる造形
2ー1.絞りの市民権
http://yaslog-okinwa.blogspot.com/2010/02/11.html

2010年3月17日

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって15

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって15

先輩でもあり、鍛金のスジミチやRAVEPORTEで一緒に活動していた関井一夫さんの学術論文を本人の許可のもとに連続掲載しま す。

出典:多摩美術大学研究紀要第20号 2005年掲載


3-2.湯床吹きと小吹き

この技術は、東京美術学校では「湯床吹き」として伝承された。住友資料館副館長の今井典子氏から御教授を受けたところでは、江戸期までの銅材は、国内市場向けとしての円板状の「丸銅」・角板状の「丁銅」と、輸出向けとしての角棒状の「棹銅」として、「湯床吹き」と酷似した「小吹(こぶき)」という製造方法で生産されていた。また、福山敏男氏の日本建築史の研究の中で、「正倉院文書」の中に「湯床という記述」が見て取れるが、それ以上の事は不明との事であった。

後日、史料を拝見したところ、数ケ所に「湯床」の記がある。 一例として、「正倉院文書16・史料6」の天平6年(736)の下りに「二丈七尺熟銅下湯床料」とあった。これは、布の大きさと使用目的の記述であるが、「熟銅の下湯床の材料(布)を二丈七尺用意した」という事である。「熟銅」とは自然銅を集め、 何度も鋳直したものを指すようだが、「熟銅下湯床」とは、湯床吹きに用いる湯床を示しており、湯床吹き技術は、奈良時代には存在していたと言えるのではないか。

2003年11月大阪歴史博物館にて、棹銅の「棹吹き」再現があり、見学して来たところ、用具等の細部は異なりながらも、 基本的には「湯床吹き」同様、温水中に布を置き、そこに精練された熔融銅を流し込み、材料として製造するものであった。

この棹吹きの再現では、銅の表面にできる亜酸化銅を表出した赤色の再現に重きが置かれていた。この赤色は輸出品として珍重されていたようだ。

ほぼ同様な技術でありながらその名称が異なるのは、技術の伝承経路が異なる、もしくは技術の位置付けが異なるからでは、ないだろうか。「小吹」は小さく吹き分けるという、量産を目的にした工程のひとつ、つまり産業システム上の名称のように伺える。一方、「正倉院文書の中にある湯床」が「湯床吹きの 湯床」を指すのであれば、「湯床吹き」は、技術そのものの姿を名称として伝えたのである。

2010年3月9日

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって14



金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって14

先輩でもあり、鍛金のスジミチやRAVEPORTEで一緒に活動していた関井一夫さんの学術論文を本人の許可のもとに連続掲載します。

出典:多摩美術大学研究紀要第20号 2005年掲載


3.湯床・技術の埋蔵物

3-1.湯床吹き

「湯床吹き」という耳慣れない技術がある。湯床と言っても 風呂のたぐいではないが、風呂と全く無縁ではない。このような切り出し方をすると、いたく怪しげな技術と思われるかもしれないが、この「湯床吹き」にも、ある問題が隠れているのである。「湯床吹き」をめぐり更に論考を進める。

 
図10 自然銅 (Michigan,U.S.A.産出)

銅塊は、自然銅(図10)という形で銅鉱石と共に発見された。しかし人為的に銅鉱石から銅を検出する為には、高い熱量の生産と同時に、銅鉱石中に含まれる銅以外の金属も取り除かなければならない。今日のような99.99%以上の高純度の銅が精練されるようになったのは近代になってからの事で、銅には銅以外の金属(銀等の不純物)が数パーセント混入していたのである。 銅材料ができるまでの工程は、銅鉱石を高温で加熱して銅を取り出し、不純物を除去し純度を高める。この精練後の銅は再度融解し、熔湯を型に流し込みインゴットを作り、高温で熱間加工し、後に室温で仕上げ寸法に冷間加工して一次製品となる。

「吹き」とは、鋳造を示す呼称であり、「湯床吹き」は、「湯床鋳造」と言える。「湯床吹き」は、銅材料製造における古のインゴット製造の工程であり、今日の銅精練の中では行われていない技術である。

2010年3月7日

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって13

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって13

先輩でもあり、鍛金のスジミチやRAVEPORTEで一緒に活動していた関井一夫さんの学術論文を本人の許可のもとに連続掲載します。

出典:多摩美術大学研究紀要第20号 2005年掲載




2-3.アルゴン溶接

鍛金の近年におけるアルゴン溶接技術の導入は、鍛金造形に大きな変革を起こした。鉄においては、アセチレンガスと酸素の混合気による、いわゆるアセチレン溶接が行われていたが、非鉄金属、特に銀や銅は、伝統的な鑞付けやリベット留めが、 主な接合技法であった。銅の場合は、特に接合部分に銀鑞の鑞目が出る為、基本的には、板材の一枚絞りで制作する事が主流であり、接合部分の造形的処理から生まれる造形上の制約は、作品の大型化を妨げていた。

伝統的な一枚絞りを主流として、絞り技術を保存伝承してきた東京藝術大学鍛金科において、三井安蘇夫氏 (12)が行ったアルゴン溶接の導入は、その後の鍛金造形を大きく変える転換点であった。三井氏は、鍛金(ここでは絞り)を後世まで残す為に, 彫刻作品に匹敵する大型の鍛金造形物を目指す事で、技術の保存伝承の可能性を見い出そうとしたわけである。この事によって、鍛金の伝統的な造形から、大きく変わったものが生まれる。 (13)

鉄板は、高温多湿な風土の野外では、特に錆びやすく劣化するが、耐用年数が遥かに勝る銅板の造形が、野外の作品として登場する。そして、一枚絞りでは不可能な造形構造作品が登場する。これらは溶接技術なくしては現れなかったものである。つまり、技術が造形を展開させた一例と言えるのである。

しかし溶接技術は、一方で絞らず立体を作る事ができる制作法も生み出す事になる。紙工作のように切り貼りする事で、金属の延展性を最大限に利用しない、板金加工のような造形も生み出す。そのような制作法は、現代のように労力と時間を最大限におさえて造形する事が、経済効果として好ましい状況ではある意味合理的と言える。何故絞らなくてはならないのかと、絞る事の意味が問われるのであろう。

こういった技術と製造物との関係は、過去においても系統樹のように、面々と繰り返されていた事が想像できる。ある目的の為に技術が生まれ、その技術を用いてまた別の目的が生まれる。進化した技術や素材もあれば、淘汰された技術や素材もあろう。しかし、淘汰された技術や素材が、劣性であったと断言できるだろうか。淘汰された理由は、技術や素材そのものにあるのではなく、それを取り巻く環境にもあった可能性も否定できないであろう。また劣性とされ淘汰されたものの中にも、造形を展開し得る重要なきっかけが、埋もれてはいないであろうか。

技術は形を成立させる為の原理であるなら、技術を技巧とは切り離した観点から、再認識する事ができる。溶接という二次的な技術は、金属熔解という現象からは鋳造との接点もある。また、型を用いない熔融と凝固による造形という道筋もある。 原理的な視点からは、今在る技術とその目的の範疇を拡大また は超越する事で、造形としての展開への理路が開けるのである。 これは素材についても同様であろう。変形絞りの誕生、伸銅品の普及による絞り技術の特化、鍛金における溶接技術の導入、これらはその実例であり、一例なのである。





(12)昭和8年(1933)東京美術学校金工科鍛金部卒業、東京藝術大学名誉教授。 平成12年(2000)没。

(13)香取秀眞が、明治38年(1905)「鎚起製銅佛像」の中で唱えて以来、半世紀を経て鍛金が踏み出した道である。




続く

2010年3月1日

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって12

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって12

先輩でもあり、鍛金のスジミチやRAVEPORTEで一緒に活動していた関井一夫さんの学術論文を本人の許可のもとに連続掲載します。

出典:多摩美術大学研究紀要第20号 2005年掲載


2-2.伸銅品

江戸期までの銅材料は、「丸銅」(図9)「丁銅」等という、円形や矩形の銅塊板材料として流通していた。我が国の銅材は, 明治に至り西欧の精銅技術の導入、そして明治3年(1870)大阪造幣局に蒸気機関を使った、ロール圧延による伸銅品の製造開始により、今日のような形のものに変わってきたのである。

丸銅は、その大きさにもよるが、おおよそ6mm程度の厚さの地金である。この銅は密度の粗い鋳造品であったので、そのまま中心部から打ち延べると、内部応力により外周囲に亀裂が 生じる。その為「山おろし」といって、外周部から徐々に地金を打ち、金属組織を練る工程から始める。いずれにせよ6mm 程度の厚さの地金から絞り出す事は、人力では不可能に近い。 そこで絞りに適した2mm以下の板厚まで平たく薄く打ち延ば してから絞る。または、材料自体の厚さを利用して、内側から鎚で板厚を薄くしながら立体状に打ち起こし、薄くなった上部を絞り込む技法もある。この打ち起す技法は、今日、底部に厚さを残して安定感のある器物を作ろうとしない限り、工業製銅板を用いる中では、体験する必然性の希薄な工程である。しかし厚板の丸銅においては、この打ち方が最も有効な造形技法となる。

既に圧延され、板厚も選べる伸銅材の登場は、丸銅から打ち延ばし成形する手間を考慮すると、打物師にとっては、画期的なものであったはずである。そして、この伸銅品としての薄板の普及が、鍛金における「絞り」技術の特化を促したのである。




続く



2010年2月25日

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって11

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって11

先輩でもあり、鍛金のスジミチやRAVEPORTEで一緒に活動していた関井一夫さんの学術論文を本人の許可のもとに連続掲載します。

出典:多摩美術大学研究紀要第20号 2005年掲載




2.素材と技術から変わる造形

2ー1.絞りの市民権

「打ち物」という技術は、「鍛冶」の陰に隠れていたように思われる。 「打ち物」の源流品として、正倉院所蔵の「玉虫の厨子」の内側に「銅製押出仏」があるが、これは近代になって再認識された観がある。今日での鍋作りは、絞り加工品の代名詞のように扱われるが、近世までの鍋作りは、主に鋳造品であった。江戸期まで、広い階級層に馴染みがあるのは、鍛冶物であったのであろう。また、武器武具として、面皰・兜といった打物もあるが、 やはり日本刀が主役であった。


「打ち物」が一躍脚光を浴びるのが、明治中期に発表し、国内外で評価された「山田宋美の作品(図7)」である。

我が国の代表的な鍛金技法のひとっに「変形絞り」と呼ばれる技術が在る。これは、一枚の地金(じがね・金属板材料) を、鎚で叩きながら、複雑な立体物に加工成形する技術である。 この技術は、通常の回転体状の器物を打ち出す「円形絞り」に対して、不定形に打ち出す技術として区別している。その「変形絞り」の名人として、東京美術学校鍛金科、明治33年(1900) 第2回卒業生で、後に明治38年(1905)から昭和26年(1951) まで、教官を勤めた石田英一が挙げられる。この「変形絞り」 に至る技術の考案は、金沢出身の山田宋美とされている。



『日本金工史談』と『鎚起の沿革(第一号本)』の、それぞれの書の中に、山田宋美についての記述がある。

要約すると「山田宋美は、鉄を材料とした象嵌器物の製造技術を父から習得して、父と共に、鳥や獣等を鉄材料から、全鎚法という、繋ぎあわせたりせずに鎚で作る技術を、考案した」 というのである。

また、『鎚起の沿革(第一号本)』では「塩田真・大森惟中氏等から鎚起・鎚金という技術名を付けられた」とある。塩田真は、農商務省の役人で1900年のパリ万博にも関わった人物である。大森惟中は、フェノロサの『美術真説』の翻訳筆記者である。また2人とも龍池会(日本美術協会)所属である。当時の権威者達が山田宋美の仕事を「鎚起・鎚金」と呼んだ。しかしながらこの命名は、年代から鍛金科開設以降の事である。

山田宋美の作品が、明治29年(1896)の日本美術展覧会を皮切りに、東京・京都、またパリ万博(1900年)等で紹介され、 高く評価される中、石田英一はその代表作として知られる「銅製群兎置物」(図8)を明治33年(1900)に制作する。この作品は、東京美術学校・東京藝術大学において「変形絞り」の代表物として位置するのである。 山田宋美の「全鎚(まるうち)」は,「一枚絞り」という呼び名として、その後の絞り技法の最も難しい技術とされ、技法習得の目標となる。


図8 石田英一「銅製群兎置物」(出展:展覧会カタログ『工芸の世紀』p.117)


図9 江戸時代丸銅(Cu:99.33%、Au:0.0002%、Ag:0.0085 %、Ni:0.035%、Pb:0.31%、以上99.68%、大石徹氏所蔵)

香取秀眞の「鎚起製の銅佛像」(校友会雑誌:明治38年)の中に、「鎚起鍛金の如き、はたその大作に適へり。(中略)その技術者の、意匠と技倆によりては、優に純正美術と称するものを作る事を得べしと思唯せり。(中略)某骨董屋の所蔵せる支那製鍍金佛の如きは、(中略)五尺有余の坐像にして銅の鎚起制作なりしなり。(中略)此の如く大体は鎚起制作なれども、総てを鎚起製にする如き愚をなさず、自在に他の鋳造製を付着せしめて頗る平気なり」とある。香取は、この仏像自体は大して美術的な意味は持たないが、その制作の考え方ひとつで、大型の彫刻作品になりうる技術であると述べている。これは、現代の鍛金作品の大型化への道を指し示すものでもあるが、同時に、当時の鍛金家が、総て鎚起で制作する事を美徳とする、技巧偏重に至っていた事も示している。「一枚絞り」という困難な技術が、その困難さ故に賞賛され、同時に造形の展開の可能性を、結果的には遅らせたとも言えるのである。

註:(11)内容はほぽ同じなので、「日本金工史談」を中心に紹介し、「鎚起の沿革(第一号本)』にのみ記述されている部分を付加する。
「金工史談続編」において香取秀眞は「明治四十五年三月その家系を問い合わせたるをもととして、後また門人黒瀬宋世氏に就て補ふところの略式」と記した後に「家祖家正慶長年間始メテ刀匠を業トシ山口玄蕃二仕へ加州大聖寺現住地ヲ拝領ス。(中略)ハ代永世文化元年二生ル。専ラ甲冑及象眼鎧ヲ作り前田家ニ仕ヘテニ人扶持ヲ給セラル。九代宗光天保二年二生ル。維新以降従来ノ業務癈タルを以テ更二鐵地象眼ノ器物ヲ作ル。明治十四年第二囘内國勧業博覧會二出品シテ銀賞ヲ受ケ、同二十六年米國シカゴ萬國博覧會二出品シテ優賞を受ク。(中略)十代長三郎宋美明治四年二生ル、父二就テ象眼及鐵鎚起ノ法ヲ修ム、爾來研讃ヲ重ネ父子協カシテ明治二十四年ヨリ同二十八年二至ルノ間二於テー種ノ全鎚法ヲ案出シテ成功セリ。道具ノ重要ナルハ鎚ト「ナラシ」トニテ打込ミ打出シヲ主トセリ。明治二十九年日本美術協會二菊水式瓶懸ヲ出品シテ宮内省御買上ノ光榮二浴ス。同三十八年日本美術協會委員ヲ嘱託セラレ、同四十一年同會審査委員二擧ゲラル。大正三年東京大正博覧會審査官ヲ嘱託セラレ、同四年日本美術協會第五部委員ヲ嘱託セラル。同五年三月十五日四十六歳ヲ以テ歿ス」とある。
「鎚起の沿革」において、編者の藤本長邦は「明治中期に加賀の大聖寺に山田長三郎あり、面頬師と称する家柄の末期の人にて鉄にて頬当等を作る工人の流れをくむ人なり。花瓶香炉等を作る以外鳥獣等鉄を用いて作るを得意とす其作風は精密なるを避け、極めて簡素にして要領を得、画法を以て言うなれば墨絵風のものにて鎚起の本分たる鎚目を大胆に生かした奔放な手法は、 賞賛にあたいす。(中略)博覧会共進会等に尽力された塩田真 大森惟中氏等により鎚起、鎚金の名称を附せられたり」とある。


続く

2010年2月19日

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって10

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって10

先輩でもあり、鍛金のスジミチやRAVEPORTEで一緒に活動していた関井一夫さんの学術論文を本人の許可のもとに連続掲載します。

出典:多摩美術大学研究紀要第20号 2005年掲載

1-9.鍛造と鎚起

 物や技術は、需要により増減する。需要が無くなれば、ものは残るかも知れないが、技術は消失してしまうものなのである。 分類や体系作りは、普遍性を目指し、合理的に行われるものである。金属工芸の分類、特に「鍛金」は、西洋型分類として体系付けられているようであって、その実、西洋型分類風に作られているだけだったのである。

「鍛」という漢字の語源を引けば、確かに「鍛金」として包括的な技法名ともいえる。(8) 「冶」という漢字には「人工で調整する意」があり、“鍛冶は、金属を叩いて作る”意味とする事もできるのである。

部民制での「鍛冶部」、律令制での「鍛冶司」も「鍛」選びの由来と考察できる。律令制での「鍛冶司」は、鉄に限定せず、銅でも雑器をつくっていたようであり、そこでは金属を叩いてものを作る総称として「鍛冶」を用いたと考えられる。そして、刀剣類は、国家戦略として「造兵司」で、武器として製造され ていた。しかし、刀造りは「刀鍛冶」という職能となり、「鍛冶」の代表が「鉄を叩いて作る仕事」となり、「鍛冶=鉄を叩いて作る仕事」となったと推測できる。当初の「鍛冶」が純粋 に金属を叩く仕事の総称であったとしても、既に言葉の意味は変わってしまっていたのである。

「鍛金」と命名する際、「鍛」の採用については,歴史を紐解き、世間の職能も照らし合わせ、「鍛」を選び出したとしても、技法の普遍的な分類体系上での最も重要な点、つまり“金属を叩いて加工成形する技術には、2つの理路がある”事を落としてしまったのである。もし、2つの理路を理解した上での命名であるなら、そこには、日本刀に対する命名者の特別な思想を「鍛金」に封じ込めたと考えられるのである。

型に熔湯を流し込み、凝固させる技術である「鋳金」は、言い換えれば、原型を金属に置き換える技術なのである。故に原型に対する「鋳型(いがた)」の制作方法が、問題であり、そのような意味では、原型づくりは鋳物技術の範晴外ともいえる。これは西洋のブロンズ彫刻において、彫刻家と鋳造家が分離している事からも明らかである。鋳造技術を中心に据えた原型という観点からは、量産の為に鋳造しやすい原型作りという、工業的な方向が見えるのである。

一方「鍛金」は、金属を直接変形させる技術である。模型というものは存在するかも知れないが、原型というものは存在しない。そして、直接的に金属を変形加工するが為に、大きく2 つの理路が生まれていたのである。それが“鍛冶物と打ち物” であったのである。

東京美術学校鍛金科開設の後、打ち物に“鎚起(ついき)” という名称が付される事になる。「鎚起」命名についての詳細は、2-1.「絞りの市民権」で後述する事にする. (9)



図6鍛金技法分類

香取秀眞は、『金工史談』の中で、「鍛金」を「鎚起鍛金」と 記している。また『日本金工史』の中で、「打ちもの(打物)」として「現在の鍛金」に当たるものを示しており、文中で「鍛金」という呼称は用いていない。むしろ「鍛造」を「鍛冶」の 技法とし、それらを指すものを「鍛金」というニュアンスで扱 っている。ゆえに、「打物」と「鍛金」の2種類の技法を総称する名称として、「鎚起鍛金」と記しているのである。また他の項では、「鋳金」「彫金」とはしながらも「打物」としている。 更に、同じく「第一章・金工の各名称及び種類」の中で、「鋳物」「彫りもの」「打ちもの」としている。香取秀其は、「鍛金」 では括りきれない、もうひとつの技術が有り、それにこだわり 「鎚起鍛金」「打物」としていたのである。現在では「鎚起」は、絞りとは別の技法として、平盤な鉄床と金槌を使って、立体状に打ち上げてゆく技法とされている事が多い。

これらからの総括的な検証として、下記のような分類名称を提示する(図6)。「鍛金」という名称は、「鎚起鍛金」「鎚鍛金」 としたいところだが、言葉としての「鍛える」という意味ではなく、漢字としての「鍛」の源を尊重し、また今日社会的に認知されている事柄として「鍛金」であるとする。そして、塊材を用いる技法と、板材を用いる技法に大きく二分し、「鍛造」「鎚起」とする。金属材質からの分類は成さず、必要とあれば、 技法の頭に金属名を付するものとする。更に、現在鎚起と呼ばれている技法は「打ち起し」とし、凹型にあて成形するものを、 「押出仏」から引用し「押し出し」とする。また「凹型を用いない押し出し」を「突き出し」とする。「打ち出し」は、鎚起と同様な意味合いとする。また塊材と板材の定義は、この技法が工芸分野のものである点から、人力による加工可能範囲でのものとして区分する。

使われなくなった言葉を「死語」と呼ぶが、今生きている言葉も、現在使われている意味合いと、過去使われていた意味合いが、同じとは限らない。文字上は同じでも、意味上は異なる部分が存在するのである。まして、「或る言葉(概念)」が生まれた以前の事象も含めて、「新語」で表すならば、必ずしも包括できない事柄もあろう。

言葉は生きものであるから、時代と共に変化する。ある意味表現内容が拡大する事もある。しかし、その臨界点を越えた時に、技法名称の賞味期限が切れるのであろう。我々は、とうに賞味期限の過ぎた技法名称の中にいるのかも知れない。だが、革新的に創造する者や、造られた物は、何も枠の中に収まる事を求めているのではない。時はすでに、鋳・彫・鍛の技法分類を横断する造形が生まれ、また鍛金技法で作られた物が、工芸ではなく彫刻ジャンルに入っている時代なのである。


図7山田宋美[鉄打出瓦上に鳩置物](出展:展覧会カタログ「鉄打出 山田宋美の世界展」p.17)

註:(8)「鍛;[解字]会意形声。段は、上から下へとおりる階段。鍛「金+(音符)段」で、上から下へと金属をたたくこと。[意味]1 きたえる(きたふ)。金属を トントンと上から下へたたいて質をよくする」

註:(9)明治30年、東京美術学鋳金科卒業。同学鋳金・金工史教授(明治36-昭和18 年)

註:(10)「第二節一打ちもの:或種の金属を鎚鍛し展延、伸縮せしめて制作する方法で、其作品には佛像、銅錫、花瓶、香爐、鉢、盆、皿、花盛器、巻煙草入れ、香凾、薬罐、銀瓶、銅壷、人物動物等の置物がある。別に鍛冶としては、刀剣、 鉈、庖刀、小刀、菜刀、鉞、斧、鍬、鎌、鋤、鉋等鋼鉄を以て刃物をつくる。本書に於ては此等刀剣類の鍛造に就ては多く述べないこととする」(香取秀真「日本金工史」p.2)


続く

2010年2月12日

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって09

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって09

先輩でもあり、鍛金のスジミチやRAVEPORTEで一緒に活動していた関井一夫さんの学術論文を本人の許可のもとに連続掲載します。

出典:多摩美術大学研究紀要第20号 2005年掲載


1−8.焼きを入れる

少々物騒な言い方として、「焼きを入れてやる」という表現がある。赤く熱した鉄を水中に投入する時の、激しい熱放出の様や、そこから連想する家畜に熔印を付ける様子から、物騒な表現に転位した言い方であろうが、「焼き入れ」とは、鉄を急冷して硬度を高める、熱処理技術の事である。この「焼きを入 ゙ れる」事も、非鉄金属にはない、鉄の素材特性である。

炭素鋼を加熱して、変態点以上の高温での「オーステナイト組織」状態から急冷すると、「パーライト組織」とならずに、「マルテンサイト組織」という非常に硬質な組織に変移する。この特性を利用したのが、「焼き入れ」である.。単一結晶の銅等では、組織変態が起きないので、「焼き入れ」はできない。つまり銅は、急冷しても硬化しないのである。鋼の急冷状態でできたマルテンサイトは、非常に硬質であるが脆い組織である。その為、250°C程度に「低温焼き戻し」を行う事で、実用硬度を得る事ができる。

金属工芸の分野では、この焼き入れ・焼き戻し温度は、加熱された金属の色を見ながら判断する。先の再結晶温度の目安である、赤色から赤橙色になったあたりが、マルテンサイト状態であり、その状態を視認して、急冷するのである。また250°Cくらいの「低温焼き戻し」状態は、鉄がキツネ色に変化するあたりなので、酸化被膜を除去してから加熱し、その色を視認して終了するのである。 このように金属工芸の分野では、科学的な合理を五感の感覚で実践する事が多いが、これは伝承された経験則を、後から科学的な法則に照らし合わせることで理解できるのである。

以上1−6.から述べたように、鉄と銅は、金属物質として大きな違いがある。更に、ひとつの技術を特化して修練する職人技術は、高度に専門化しながらも、それ故に孤立した技術とも言える。「銅等の金属板材料を成形する技術(鍛金)」と「鉄塊材を成形する技術(鍛金)」が、職人という専門家技術であったなら、東京美術学校での「鍛金」は、2種類の異なる個別な技術として始まったのであろう。また主任教官を、絞り技術の専門家として授業を開始した以上、絞り技術に特化する傾向は、この時に始まり、鍛冶仕事のイメージとは、どこかで折り合いのつかぬまま、鍛金造形は進んだのである。

2010年2月10日

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって08

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって08

先輩でもあり、鍛金のスジミチやRAVEPORTEで一緒に活動していた関井一夫さんの学術論文を本人の許可のもとに連続掲載します。

出典:多摩美術大学研究紀要第20号 2005年掲載


1-7.鉄は熱いうちに打て

金属は、叩くまたは曲げる(加圧する)事で、結晶面のすべりが起こり塑性変形し、この塑性変形と共に硬化する。これを加工硬化と呼ぶ。加工硬化した金属を加熱すると、再結晶し軟化する。これを「焼きなまし(焼鈍)」と呼ぶ。鍛金は、この加工硬化と再結晶軟化を利用して、成形する技法である。

再結晶温度以上での加工を「熱間加工」、再結晶温度以下での加工を「冷間加工」と言う。熱間加工では、加工硬化と再結晶軟化が同時に起こり、硬化は緩和されるので、大きい加工率を一度に与える事ができる。一般的に視認状態で金属を加熱して、赤色になっている状態は、金属温度として、各金属の融点の2分の1程度の再結晶軟化している状態であると言える。

鉄は、再結晶温度の状態で「面心立方晶」状態に組織変移しているので、可塑性に富んだ状態にある。そして金属温度が下がると、硬質な「体心立方晶」状態に組織変移する。

「鉄は熱いうちに打て」とは、「銅等は、単一結晶相なので、 熱間状態でも冷間状態でも、面心立方晶状態であるから、変形は容易である。しかし、鉄は熱間状態の時のみに、面心立方結晶状態にある為、大きく変形する事が可能になる。ゆえに“熱い=赤い”状態の時に加工しろ」という事なのである。


続く

2010年2月5日

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって07

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって07

先輩でもあり、鍛金のスジミチやRAVEPORTEで一緒に活動していた関井一夫さんの学術論文を本人の許可のもとに連続掲載します。

出典:多摩美術大学研究紀要第20号 2005年掲載


1ー6.鉄と銅

モノを作るには、「何を(目的)・何で(素材)・どうやって(技術)」という3つの命題が重要であろう。「鍛冶物」と「打ち物」は違うと述べているが、決定的な違いは、同じ金属でも組成が異なる素材にこそある。少々難解だが、金属工学的に鉄と銅について記述しなければならない。
 金属物質を構成する原子の集合体である結晶は、複数の結晶格子に分類されており、銅等と鉄とでは結晶格子が全く異なる(図4)。銅等は、固体状態で可塑性に富む「面心立方晶」の単一結晶相であり、鉄は固体状態で「体心立方晶」と「面心立方晶」の2種類の結晶組織を持つ。この両者の違いは、同じ金属族ではあるが、全く別物と言ってよい。鉄は固体相状態における温度帯により、2つの性格を持つ二重人格なのである。
 固体金属を材料とする鍛金において、その成形加工上、最も問題となるのは、銅等と鉄の温度帯における「結晶格子の違い」である。
 金属工学上、鉄は複雑な金属である、鉄は「固体相状態における温度帯により、2つの結晶格子を持つ」と記したが、この結晶格子には、それぞれに、固有の組織名称が与えられている、100%純鉄の場合、体心立方晶の組織を「フェライト(ferit:e):(a-Fe)・面心立方晶の組織を「オーテスナイト(austenit:e):y-Fe」・熔融前の高温での体心立方晶組織を「デルタフェライト(δ-ferrite:δ-Fe)」と呼ぶ(図5)。
 更に、炭素鋼(鉄鋼)の場合のフェライトは、炭素の含有量により、「フェライト組織」から「パーライト(pearlite)組織」 に移行する。更に「パーライト組織」の温度帯でも、複雑な組織状態が存在する。鉄は炭素の含有量が増すごとに硬度は高まるが、同時に靭性(じんせい・粘り強さ)が失われる。


図4 代表的な金属結晶の単位格子(左:体心立方晶、右:面心立方晶)


純金属の平衡状態図(金・銀・銅のP-T図)    鉄のP-T図
図5 純金属の平衡状態図・鉄の平衡状態図(出典:西川精一「新版・金属工学入門Jp.35」

 鉄は我々の生活の中では大変身近な金属であり、実に多様な金属でもある。鉄・鋼(はがね)・ステンレス等があり、一般に鉄と呼んでいるものも、微量な炭素を含む炭素含有鉄(炭素鋼)つまり鋼で、我々のまわりの鉄と呼ばれるものは、殆どが多様な鉄合金である(7)。鉄を鍛えるという意味合いには、この炭素含有量が関係する。炭素量の多い銑鉄は脆いので高温で加熱しながら打つ事で、脱炭する事ができ、炭素量の少ない鉄は、 炭で高温に加熱し、浸炭する事ができる。炭素量の調節により、 適度な硬度と靭性をもつ鋼ができあがる。これが鍛冶屋の仕事の中で行われる、形を作る行為とは別な、金属そのものを打ち鍛える行為なのである。

註:(7) 鉄の金属工学上の定義は,「Fe-C系2元合金において、フェライトの炭素最大固溶量(0.002[mass%])からオーテスナイト炭素最大固溶(2.14[mass%])の範囲にある部位を鋼と呼び、炭素含有量0.002[mass%]以下を鉄、2.14[mass%]以上を鋳鉄(銑鉄)」である。




続く

2010年2月2日

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって06

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって06

先輩でもあり、鍛金のスジミチやRAVEPORTEで一緒に活動していた関井一夫さんの学術論文を本人の許可のもとに連続掲載します。

出典:多摩美術大学研究紀要第20号 2005年掲載


1ー5.鍛金命名

現在、「鍛金」技法は、材料を基準として「金属塊材を用いる技術」と「金属板材を用いる技術」に大別する事ができる。前者は、鉄を主材料とした「鍛造」、後者は、銅を主材料とした「絞り」として、大学では教えられている。

鍛金技法は、これまで東京美術学校および、その後の東京藝術大学が、学究の中心であった事は疑う余地がなく、その東京藝術大学鍛金教室での授業内容の中心は、永きにわたり、加工する材質に関わらず、金属板材加工技術に置かれていた。

東京美術学校は、我が国最初の官立金工科誕生の地である。それ以前にあった工部省管下の「百工ノ補助」として、工業品 (輸出用工芸品)の下図制作の為に、西洋美術を積極的に輸入しようとした工部美術学校とは異なり、文部省管下の同校は、国粋的と言えるほど、旧来の日本美術復権に向う学校としてスタートした。

東京大学文学部に赴任したフェノロサが、「美術真説」(5)の中で日本画の優位性を唱えた後、明治20年(1887)に東京美術学校が設置され、明治22年(1889)から絵画科(日本画)・彫刻科(木彫)・美術工芸科(金工・漆工)の授業が始まる。金工部の当初は彫金科のみの設置で、明治25年(1892)に鋳金科、明治28年(1895)に鍛金科が設置された。更にその翌年、明治29年(1896)になりようやく西洋画科が設置された。

江戸期までの金属加工の名称は、工人職人の職能名称であって、そこには個々の技術を体系付ける概念というものが見当たらない。それは単一の技術を伝承する、職人技術教育の中では、学校教育のような、学問的体系付けは必要ないのである。つまり、西洋型の分類体系付けが必要となった時に、それまでの混沌とした状況を整理したのである。言うまでもなく、初めての官立美術工芸科が生まれた時点で、現在の金属工芸技法としての「彫金・鍛金・鋳金」という、体系付けが行われたのである。

鍛金科設立にあたり、当時の校長である岡倉天心は、日清戦争後の刀剣類に対する再評価の機運に乗じ、当初刀剣類を美術学校内で打たせる事を目的に、指導者として準備段階から桜井征次(天皇銀婚式献上太刀の制作等に関わった)(6)を嘱託としていた。しかし、既に明治4年(1871)に廃刀令が施行されており、時代錯誤であるという周囲の意見から、明治28年(1895) に平田宗幸(鑞を用いない木目金の考案者である)、明治30年 (1897)に藤本万作が呼ばれ、以来、東京美術学校、それに続く東京藝術大学の鍛金科は、平田派の流れを汲む事になる。

刀鍛冶は、古来鍛冶部(かぬちべ)からつながる鍛冶の仕事であり、日本刀は美と用を高度に兼ね備える、日本の工芸美の結晶と言えたのであろう。その「鍛」の字を用いて「鍛金」と するのは、日本刀を含めた、鍛冶物を中心に指導する講座としては、当然な名称である。一方、平田家は初代禅之丞のもと、 江戸中期に甲冑師から興るが、江戸後期には金銀神器を作り、幕府御用打ち物師となった系譜である。平田家は鍛冶師ではないのである。ここにおいて、当初の鍛冶を中心に据えた鍛金科は、中心軸をずらした形で開講した事になる。

現在の美術大学のように、ある程度全般的な技術習得を行っていない、職人としての一芸に秀でる技術習得からすると、鉄を材料とする鍛金と、金銀銅等の非鉄金属(銅等とする)を材料とする鍛金では、大きな違いがあったのである。

註:
(5) 明治15年(1882)に、龍池会における講演が後に『美術真説』として出版された
(6) 桜井征次は、嘱託職員として東京美術学校に勤務するが、岡倉天心校長の辞職に伴い、明治31年(1898)に33名の教官と共に辞任する


続く

2010年1月30日

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって05

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって05

先輩でもあり、鍛金のスジミチやRAVEPORTEで一緒に活動していた関井一夫さんの学術論文を本人の許可のもとに連続掲載します。

出典:多摩美術大学研究紀要第20号 2005年掲載



1-4.鍛・金 新語の誕生
鍛金に限らず、鋳金・彫金共に「鍛」「鋳」「彫」という、それぞれを代表する技法に「金」を付けて作られた名称と言える。代表する技法・技術とは、「鋳物」であり、「彫り物」であり、「鍛冶物」である。これらの技法名は「工芸」と同様に、明治に作られた造語である。今日我々が常用する日本語の中には、明治期に西洋の概念を翻訳する為に生まれた新語が非常に多い。「思想」「概念」「哲 学」「政治」「会社」「銀行」「工業」等、その実、挙げ出すときりがないほどであり、二文字熟語には特に多いのである。 「工芸」という言葉も「美術」と同じく、明治期において西洋の「ART」および「CRAFT」という概念を翻訳する為の造語であった。この新造語の誕生には、重要な問題が隠れている。 それは、言葉が無かったという事は、その言葉が示す概念が存在しなかったので、表す必要すらなかったという事である。

日本国は、明治の開国により欧化政策を進める。「ART」 「CRAFT」という区分は、それまであった日本国内の“ART・CRAFTのようなもの”(4)を”美術・工芸”と命名して、西洋的に分類したのである。

そして「工芸」という造語の誕生により、「工芸という概念」 が生まれた。それに伴い、工芸に含まれる金属加工分野を、金属工芸として整理し、造形する技法に基づき、鍛金・鋳金・彫 金という名称を付け、分類したのである。

分類にあたり、歴史上の制度や、それまでの世間にあったモノから、名前を借りる事になったのだが、借用先を加工技術名、 つまり職能名に求めたのである。この時"鍛金は鍛冶から”名前を借りたのである。

註:(4) “ART・CRAFTのようなもの”という事では、ウィリアム・モリス(William Morris)の、Arts&Crafts運動があるが、ここでは、その問題には触れない。