2010年3月17日

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって15

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって15

先輩でもあり、鍛金のスジミチやRAVEPORTEで一緒に活動していた関井一夫さんの学術論文を本人の許可のもとに連続掲載しま す。

出典:多摩美術大学研究紀要第20号 2005年掲載


3-2.湯床吹きと小吹き

この技術は、東京美術学校では「湯床吹き」として伝承された。住友資料館副館長の今井典子氏から御教授を受けたところでは、江戸期までの銅材は、国内市場向けとしての円板状の「丸銅」・角板状の「丁銅」と、輸出向けとしての角棒状の「棹銅」として、「湯床吹き」と酷似した「小吹(こぶき)」という製造方法で生産されていた。また、福山敏男氏の日本建築史の研究の中で、「正倉院文書」の中に「湯床という記述」が見て取れるが、それ以上の事は不明との事であった。

後日、史料を拝見したところ、数ケ所に「湯床」の記がある。 一例として、「正倉院文書16・史料6」の天平6年(736)の下りに「二丈七尺熟銅下湯床料」とあった。これは、布の大きさと使用目的の記述であるが、「熟銅の下湯床の材料(布)を二丈七尺用意した」という事である。「熟銅」とは自然銅を集め、 何度も鋳直したものを指すようだが、「熟銅下湯床」とは、湯床吹きに用いる湯床を示しており、湯床吹き技術は、奈良時代には存在していたと言えるのではないか。

2003年11月大阪歴史博物館にて、棹銅の「棹吹き」再現があり、見学して来たところ、用具等の細部は異なりながらも、 基本的には「湯床吹き」同様、温水中に布を置き、そこに精練された熔融銅を流し込み、材料として製造するものであった。

この棹吹きの再現では、銅の表面にできる亜酸化銅を表出した赤色の再現に重きが置かれていた。この赤色は輸出品として珍重されていたようだ。

ほぼ同様な技術でありながらその名称が異なるのは、技術の伝承経路が異なる、もしくは技術の位置付けが異なるからでは、ないだろうか。「小吹」は小さく吹き分けるという、量産を目的にした工程のひとつ、つまり産業システム上の名称のように伺える。一方、「正倉院文書の中にある湯床」が「湯床吹きの 湯床」を指すのであれば、「湯床吹き」は、技術そのものの姿を名称として伝えたのである。