2010年4月1日

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって16

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって16

先輩でもあり、鍛金のスジミチやRAVEPORTEで一緒に活動していた関井一夫さんの学術論文を本人の許可のもとに連続掲載しま す。

出典:多摩美術大学研究紀要第20号 2005年掲載

3-3.湯床吹きは何故生き残ったのか

「湯床吹き」は、東京美術学校の時代から東京藝術大学鍛金研究室の一部で伝承されていた。論者は、三井安蘇夫氏から伊藤廣利氏(14)に直伝されたものを、伊藤氏に教授願った。また三井氏は、同学大学院鍛金専攻学生を対象とした「工芸制作法」という講義の中で、その技術を紹介していた。

東京美術学校で「湯床吹き」が伝承された主な目的は、色金製造にあったと言える。色金とは、異なる金属を合わせ熔融して作り出す、純金属とは異なる色を持つ合金属である。代表的な色金には、銅に約25%の銀を混合した「四分一(しぶいち)」、銅に約4%の金を混合した「赤銅(しゃくどう)」等がある。色金は、金属工芸における色彩表現の幅を広げるものであった。

西欧の精練技術が導入され、工業製品として伸銅材等が製造販売され始めた明治期に、あえて旧物である「湯床吹き」を同校で保存伝承したのは、この色金製造技術の継承を目的としたものに他ならない。美術学校の使命の中に、日本の伝統技術の保存があったとしても、技術そのものが、工学的な学問の対象とする理由で残されたとは考えにくい。また工芸品が手工業品として有効な輸出品としての役割を失うと共に、工業の仲間に入れなかった特殊な色金を製造する「湯床吹き」技術には、科学のメスが入らぬままに、ほぼ古の原型を留めたままの手法で伝承されたと考えられる。

東京美術学校では、あくまでも美術工芸品の制作を前提とし、伸銅工業品とならなかった色金を作る為に、「湯床吹き」が保存伝承されたのである.

註:(14)昭和38年(1963)東京美術学校工芸科鍛金部卒業,東京畿術大学教授,平成 11年(1999)没.


続く

追記
下記エントリーで註釈が抜けていました。大変失礼しました。

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって11
2.素材と技術から変わる造形
2ー1.絞りの市民権
http://yaslog-okinwa.blogspot.com/2010/02/11.html