2010年2月25日

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって11

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって11

先輩でもあり、鍛金のスジミチやRAVEPORTEで一緒に活動していた関井一夫さんの学術論文を本人の許可のもとに連続掲載します。

出典:多摩美術大学研究紀要第20号 2005年掲載




2.素材と技術から変わる造形

2ー1.絞りの市民権

「打ち物」という技術は、「鍛冶」の陰に隠れていたように思われる。 「打ち物」の源流品として、正倉院所蔵の「玉虫の厨子」の内側に「銅製押出仏」があるが、これは近代になって再認識された観がある。今日での鍋作りは、絞り加工品の代名詞のように扱われるが、近世までの鍋作りは、主に鋳造品であった。江戸期まで、広い階級層に馴染みがあるのは、鍛冶物であったのであろう。また、武器武具として、面皰・兜といった打物もあるが、 やはり日本刀が主役であった。


「打ち物」が一躍脚光を浴びるのが、明治中期に発表し、国内外で評価された「山田宋美の作品(図7)」である。

我が国の代表的な鍛金技法のひとっに「変形絞り」と呼ばれる技術が在る。これは、一枚の地金(じがね・金属板材料) を、鎚で叩きながら、複雑な立体物に加工成形する技術である。 この技術は、通常の回転体状の器物を打ち出す「円形絞り」に対して、不定形に打ち出す技術として区別している。その「変形絞り」の名人として、東京美術学校鍛金科、明治33年(1900) 第2回卒業生で、後に明治38年(1905)から昭和26年(1951) まで、教官を勤めた石田英一が挙げられる。この「変形絞り」 に至る技術の考案は、金沢出身の山田宋美とされている。



『日本金工史談』と『鎚起の沿革(第一号本)』の、それぞれの書の中に、山田宋美についての記述がある。

要約すると「山田宋美は、鉄を材料とした象嵌器物の製造技術を父から習得して、父と共に、鳥や獣等を鉄材料から、全鎚法という、繋ぎあわせたりせずに鎚で作る技術を、考案した」 というのである。

また、『鎚起の沿革(第一号本)』では「塩田真・大森惟中氏等から鎚起・鎚金という技術名を付けられた」とある。塩田真は、農商務省の役人で1900年のパリ万博にも関わった人物である。大森惟中は、フェノロサの『美術真説』の翻訳筆記者である。また2人とも龍池会(日本美術協会)所属である。当時の権威者達が山田宋美の仕事を「鎚起・鎚金」と呼んだ。しかしながらこの命名は、年代から鍛金科開設以降の事である。

山田宋美の作品が、明治29年(1896)の日本美術展覧会を皮切りに、東京・京都、またパリ万博(1900年)等で紹介され、 高く評価される中、石田英一はその代表作として知られる「銅製群兎置物」(図8)を明治33年(1900)に制作する。この作品は、東京美術学校・東京藝術大学において「変形絞り」の代表物として位置するのである。 山田宋美の「全鎚(まるうち)」は,「一枚絞り」という呼び名として、その後の絞り技法の最も難しい技術とされ、技法習得の目標となる。


図8 石田英一「銅製群兎置物」(出展:展覧会カタログ『工芸の世紀』p.117)


図9 江戸時代丸銅(Cu:99.33%、Au:0.0002%、Ag:0.0085 %、Ni:0.035%、Pb:0.31%、以上99.68%、大石徹氏所蔵)

香取秀眞の「鎚起製の銅佛像」(校友会雑誌:明治38年)の中に、「鎚起鍛金の如き、はたその大作に適へり。(中略)その技術者の、意匠と技倆によりては、優に純正美術と称するものを作る事を得べしと思唯せり。(中略)某骨董屋の所蔵せる支那製鍍金佛の如きは、(中略)五尺有余の坐像にして銅の鎚起制作なりしなり。(中略)此の如く大体は鎚起制作なれども、総てを鎚起製にする如き愚をなさず、自在に他の鋳造製を付着せしめて頗る平気なり」とある。香取は、この仏像自体は大して美術的な意味は持たないが、その制作の考え方ひとつで、大型の彫刻作品になりうる技術であると述べている。これは、現代の鍛金作品の大型化への道を指し示すものでもあるが、同時に、当時の鍛金家が、総て鎚起で制作する事を美徳とする、技巧偏重に至っていた事も示している。「一枚絞り」という困難な技術が、その困難さ故に賞賛され、同時に造形の展開の可能性を、結果的には遅らせたとも言えるのである。

註:(11)内容はほぽ同じなので、「日本金工史談」を中心に紹介し、「鎚起の沿革(第一号本)』にのみ記述されている部分を付加する。
「金工史談続編」において香取秀眞は「明治四十五年三月その家系を問い合わせたるをもととして、後また門人黒瀬宋世氏に就て補ふところの略式」と記した後に「家祖家正慶長年間始メテ刀匠を業トシ山口玄蕃二仕へ加州大聖寺現住地ヲ拝領ス。(中略)ハ代永世文化元年二生ル。専ラ甲冑及象眼鎧ヲ作り前田家ニ仕ヘテニ人扶持ヲ給セラル。九代宗光天保二年二生ル。維新以降従来ノ業務癈タルを以テ更二鐵地象眼ノ器物ヲ作ル。明治十四年第二囘内國勧業博覧會二出品シテ銀賞ヲ受ケ、同二十六年米國シカゴ萬國博覧會二出品シテ優賞を受ク。(中略)十代長三郎宋美明治四年二生ル、父二就テ象眼及鐵鎚起ノ法ヲ修ム、爾來研讃ヲ重ネ父子協カシテ明治二十四年ヨリ同二十八年二至ルノ間二於テー種ノ全鎚法ヲ案出シテ成功セリ。道具ノ重要ナルハ鎚ト「ナラシ」トニテ打込ミ打出シヲ主トセリ。明治二十九年日本美術協會二菊水式瓶懸ヲ出品シテ宮内省御買上ノ光榮二浴ス。同三十八年日本美術協會委員ヲ嘱託セラレ、同四十一年同會審査委員二擧ゲラル。大正三年東京大正博覧會審査官ヲ嘱託セラレ、同四年日本美術協會第五部委員ヲ嘱託セラル。同五年三月十五日四十六歳ヲ以テ歿ス」とある。
「鎚起の沿革」において、編者の藤本長邦は「明治中期に加賀の大聖寺に山田長三郎あり、面頬師と称する家柄の末期の人にて鉄にて頬当等を作る工人の流れをくむ人なり。花瓶香炉等を作る以外鳥獣等鉄を用いて作るを得意とす其作風は精密なるを避け、極めて簡素にして要領を得、画法を以て言うなれば墨絵風のものにて鎚起の本分たる鎚目を大胆に生かした奔放な手法は、 賞賛にあたいす。(中略)博覧会共進会等に尽力された塩田真 大森惟中氏等により鎚起、鎚金の名称を附せられたり」とある。


続く