2010年2月2日

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって06

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって06

先輩でもあり、鍛金のスジミチやRAVEPORTEで一緒に活動していた関井一夫さんの学術論文を本人の許可のもとに連続掲載します。

出典:多摩美術大学研究紀要第20号 2005年掲載


1ー5.鍛金命名

現在、「鍛金」技法は、材料を基準として「金属塊材を用いる技術」と「金属板材を用いる技術」に大別する事ができる。前者は、鉄を主材料とした「鍛造」、後者は、銅を主材料とした「絞り」として、大学では教えられている。

鍛金技法は、これまで東京美術学校および、その後の東京藝術大学が、学究の中心であった事は疑う余地がなく、その東京藝術大学鍛金教室での授業内容の中心は、永きにわたり、加工する材質に関わらず、金属板材加工技術に置かれていた。

東京美術学校は、我が国最初の官立金工科誕生の地である。それ以前にあった工部省管下の「百工ノ補助」として、工業品 (輸出用工芸品)の下図制作の為に、西洋美術を積極的に輸入しようとした工部美術学校とは異なり、文部省管下の同校は、国粋的と言えるほど、旧来の日本美術復権に向う学校としてスタートした。

東京大学文学部に赴任したフェノロサが、「美術真説」(5)の中で日本画の優位性を唱えた後、明治20年(1887)に東京美術学校が設置され、明治22年(1889)から絵画科(日本画)・彫刻科(木彫)・美術工芸科(金工・漆工)の授業が始まる。金工部の当初は彫金科のみの設置で、明治25年(1892)に鋳金科、明治28年(1895)に鍛金科が設置された。更にその翌年、明治29年(1896)になりようやく西洋画科が設置された。

江戸期までの金属加工の名称は、工人職人の職能名称であって、そこには個々の技術を体系付ける概念というものが見当たらない。それは単一の技術を伝承する、職人技術教育の中では、学校教育のような、学問的体系付けは必要ないのである。つまり、西洋型の分類体系付けが必要となった時に、それまでの混沌とした状況を整理したのである。言うまでもなく、初めての官立美術工芸科が生まれた時点で、現在の金属工芸技法としての「彫金・鍛金・鋳金」という、体系付けが行われたのである。

鍛金科設立にあたり、当時の校長である岡倉天心は、日清戦争後の刀剣類に対する再評価の機運に乗じ、当初刀剣類を美術学校内で打たせる事を目的に、指導者として準備段階から桜井征次(天皇銀婚式献上太刀の制作等に関わった)(6)を嘱託としていた。しかし、既に明治4年(1871)に廃刀令が施行されており、時代錯誤であるという周囲の意見から、明治28年(1895) に平田宗幸(鑞を用いない木目金の考案者である)、明治30年 (1897)に藤本万作が呼ばれ、以来、東京美術学校、それに続く東京藝術大学の鍛金科は、平田派の流れを汲む事になる。

刀鍛冶は、古来鍛冶部(かぬちべ)からつながる鍛冶の仕事であり、日本刀は美と用を高度に兼ね備える、日本の工芸美の結晶と言えたのであろう。その「鍛」の字を用いて「鍛金」と するのは、日本刀を含めた、鍛冶物を中心に指導する講座としては、当然な名称である。一方、平田家は初代禅之丞のもと、 江戸中期に甲冑師から興るが、江戸後期には金銀神器を作り、幕府御用打ち物師となった系譜である。平田家は鍛冶師ではないのである。ここにおいて、当初の鍛冶を中心に据えた鍛金科は、中心軸をずらした形で開講した事になる。

現在の美術大学のように、ある程度全般的な技術習得を行っていない、職人としての一芸に秀でる技術習得からすると、鉄を材料とする鍛金と、金銀銅等の非鉄金属(銅等とする)を材料とする鍛金では、大きな違いがあったのである。

註:
(5) 明治15年(1882)に、龍池会における講演が後に『美術真説』として出版された
(6) 桜井征次は、嘱託職員として東京美術学校に勤務するが、岡倉天心校長の辞職に伴い、明治31年(1898)に33名の教官と共に辞任する


続く