2010年1月28日

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって04

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって04

先輩でもあり、鍛金のスジミチやRAVEPORTEで一緒に活動していた関井一夫さんの学術論文を本人の許可のもとに連続掲載します。

出典:多摩美術大学研究紀要第20号 2005年掲載

1-3. 職人中心

日本は、銅と鉄が同時に大陸から渡来してきた国である。そして律令制度という奴隷制を基にした、工人の間で技術が伝えられてきた。更に中世以降は、自ら道具と設備を持ち賃金を得る職人が、徒弟制度という教育方法の中で、金属加工技術を伝えてきた。




図1 中世の刀鍛冶(「七十一番職人歌合絵」、出典:遠藤元男「金属表 面処理職人史」p.194)



図2 中世の刀研ぎ(「七十一番職人歌合絵」、出典:遠藤元男「金属表 面処理職人史」p.195)

遠藤元男(文学博士・日本職人史研究)氏の「金属表面処理・職人史」によると、古代での金属加工技術は、律令制の中で、部民という工人が従事しており、7世紀には、銅・鉄の雑器類をつくる「鍛冶司(かじのつかさ)」、金・銀・銅・鉄の造鋳と塗飾と瑠璃と玉作をつくる「典鋳司(いもじのつかさ)」、 兵器をつくる「造兵司(つわものつくりのつかさ)」、寺の施設・調度を造る「造寺司」という管工房で行われていた。

中世での金属加工技術職人には、「鍛冶(かじ)・刀磨(かたなとぎ)・鋳物師(いものし・いもじ)・鍋売(なべうり)・針磨(はりとぎ)・銅細工(あかがねざいく)・鏡磨(かがみとぎ)・鎧細工(よろいざいく)・銀細工(しろがねざいく)・薄打(はくうち)」があった(図1,2)。

近世では、「金彫師(かなほりし)・針摺(はりすり)・縫針師(ぬいばりし)・鋳師(かざりし)・象眼師(ぞうがんし)・ 銀師(しろがねし)・幾世留張(きせるはり)・鈴張(すずはり)・鋳物師(いものし)・鏡師(かがみし)・薄師(はくし)・ 金粉師(きんぷんし)・銖泥師(ちゅうでいし)・薬錐師(やかんし)・小刀磨にがたなとぎ)・鍛冶(かじ)・刀鍛冶(かたなかじ)・鑓鍛冶(やりかじ)・庖丁鍛冶(ほうちょうかじ)・ 鋏鍛冶(はさみかじ)・小刀鍛冶にがたなかじ)・剃刀鍛冶 (かみそりかじ)・仏具師(ぷっぐし)・錫師(すずし)・針鉄師 (はりがねし)・下地師(したじし)・鋳掛師(いかけい・鉄砲鍛冶(てっぽうかじ)・釘鍛冶(くぎかじ)・刀研(かたなとぎ)・魚子師(ななこし)・七宝師(しっぽうし)」があったというのである(図3)。



図3 近世の銀師・近世の鈴張(「人倫訓蒙図」、出典:遠藤元男「金属 表面処理職人史」p.235)

これらの史実から、時代が下るにつれ、職業名が増加している事がわかる。職業名の増加は、社会が変わるにつれ、需要と供給の関係が拡大したといえる。

また、この職業名からも「鍛冶」が非常に多い事がわかる。野鍛冶も含め、鍛冶は様々な階層に馴染みが深く、その意味では暮らしに密着していたのであろう。一方、薬錐師・鈴張・錫師等は、打ち物であるが、その技術は「〜鍛冶」のようなまとまりが見られず、薬罐・鈴という道具名称、または錫という金属名称である。刀は、形をつくる鍛冶仕事と、使用できるように研ぐ仕事が早くから分業し、専門化していた。故に形を造る仕事の頭に、道具名を付け「刀・鍛冶」となったと考えられる。

近代になると、明治34-38年(1901-5)にまとめられた「東京工匠名鑑」の中で、工匠69部門中23の金属加工職人部門が 紹介されている。この中に「鎚起鎚金並鍛金」(94人;打物細工師・鎚起師・鎚金師)と出てくる。「鍛冶」(14人;鍛冶工・ 鍛冶職・刃物師)、「武具」(4人;刀鍛冶・刀剣師)等もある。 ここで注目したい事項は、江戸時代の薬罐師や鈴張という仕事名ではなく、鎚起師・鎚金師という技法名が職業名として現れている。これは明治以降の分類体系化の現れでもある。

しかし、新たな産業構造の中で、生産体系の変化と、新たな産業技術および産物の登場により、既存の職人は職をなくし、 新たな職業に転化する事になる。多くの者は、工場生産に従事する労働者となり、一部の名のある職人が、外貨獲得の為の輸出品となった工芸品の製造、または美術学校という教育制度の中で職を得るのである。

そして、徒弟制度で育てられた「職人」とは別に、学校教育制度で育てられた「工芸家」という新たな職能者を生み出す。 現在は、職人と工芸家という2種類の職能者が存在する時代なのである。


続く