2010年6月28日

現実からの創作・富本憲吉「模様から模様をつくらず」03

鍛金家関井一夫さんの論文を連続掲載します。

現実からの創作・富本憲吉「模様から模様をつくらず」03

関井一夫 多摩美術大学工芸学科非常勤講師

出典:多摩美術大学文様研究室 [文様・デザイン・技術]2005 より


その1・『新旧の工芸家』

「工芸や工芸家」という概念が生まれる以前、これらの仕事に携わっていたのは職人という職能者である。そして、これらの技術や意匠(模様・形)は、職人の形成する世襲・徒弟制度を通して、師匠から弟子に伝えられていた。徒弟制度は、師匠の生産を助ける代わりに、弟子が技術を習得する、師弟間の契約関係であり、その中では、代々門外不出の技法もあった事は言うまでもない。こうした地域・一門・家で形成される職人社会の中で、それぞれの特性を継承し、産業品としての技術や意匠を守り伝えていたのである。

これに対して明治以降、美術学校という新たな教育制度も工芸技術の伝承に携わるようになってから、職人とは異なる工芸作家という職能者が現れる。学校での技術伝承は、公に開かれたものとなり、労働の代償としての習得という徒弟関係に基づくものではない。工芸技術そのものは、手板・手本の模写を通して先生から習得したが、東京美術学校を例にとるならば、美術学校の存在が、技術の保存と新時代への適応という役割を担っていた以上、殖産の方向に向かうためには、世襲的な旧物の意匠までは、必ずしも伝承するべきものではなかった。

 富本を含め、はじめに記した内藤四郎・増田三男・田村耕一・藤本能道の各氏は、みな東京美術学校(現東京芸術大学)の出身であり、世襲の工芸家ではない。さらに富本・田村・藤本氏は、図案科卒業であり、美術学校で陶芸技術を学んではいない(*3)。田村氏は、美校の先輩である富本の紹介で輸出陶器デザイン研究所設立のために京都におもむき、「デザインをするなら、実際に焼き物をやってみなくてはならないという理由から始めたら面白くなった(田村氏談)」という事情で陶芸の道に入る。富本は、楽焼きから陶芸を始め、幼少時から育てられた素養と、リーチとの交流による研究、職人達の手仕事等から自身の陶芸を独学で作り上げるのである。つまり、美術学校出身の彼等は、世襲という背景をもっていないのである。この世襲という背景は、伝承されてきた技術・意匠と共に、それらを生産し流通させる生産基盤でもある。職人の世界では、技術・意匠と共 に、製造・流通システムがあってこそ生計が成り立っていた訳だが、新興の工芸家は、師匠から受け継ぎ、守り伝えるべき技術・意匠をもたない代わりに、生産基盤も譲られなかったのである。富本のような新興の工芸作家は、世襲という生産基盤を持たない代りに、創造という新たな価値基盤を持とうとしたとも考えられるのである。そして富本の創造は、模様であり図案にむけられたのである。富本は、東京美術学校図案科の教授就任時に、『美術』第8号(昭和19年8月)で、以下のように述べている。「工芸の根本内容は図案にあるのであって、個々専門の技術はそこから生まれる表現手段であると考える。(中略)新しい日本の図案を生み出す力を養うことが、現在最も緊要なことである。(中略)もっと自然から直接図案を学んでいいと思う。 図案即ち工芸が生活的でなければならない。(中略)これ等 のことを思う時、図案力の根本となる教育の重大さを切に思う。」ここには、戦中下の国策としての「日本の図案」の創出という意味よりも、それまでの古典や西洋図案を模倣する図案教育に対する批判が込められている。

明治・大正期の工芸作家達の多くは、新たな価値観としての創造を前面に押し出していたわけではない。『東京美術学校の歴史(日本文教出版)」・第6章・209頁に、当時を表した以下のような掲載文がある。「明治期の工芸界には革新運動は画壇において見られたような時代を画するような革新運動は起こらず、主な発表機関としては日本美術協 会や東京彫工会、博覧会等をはじめ、各分野ごとの団体による展覧会であったが、開発が十分におこなわれなかった。当時宮内省では工芸を保護奨励するという意味で優秀賞の御買上をおこなっており、それは美術界でも同様だったが、工芸界では商人達が暗に御買上による利益を期待して有力工芸家に作品を作らせ、上記のような展覧会に出品させるということが慣例になっていた。明治20年から大正半ばまでこの御買上は盛んにおこなわれ、それに対して工芸各団体はいずれも当局の高官を会頭に頂き、御幸を願い出て御買上を得ようとし、工芸家達もそれを期待する傾向があった。そのため彼らは自らの土台とすべきものを見失い、徒らに技巧を尽くしたものや、古典を模擬して優雅らしく見せたものや、あるいは威厳を示そうとした作品を作ることに力を費やし、庶民的感情をもって愛すべき作品を作ることができなかったのである。(『美の国』第3巻3号、昭和2年4月より)」このように、当時の工芸界は、古典の模擬と華美な一品制作を追い求めるものが主流であった。

富本の美校在学中、1907(明治40)年に文展が開設されるが、工芸は除外され、これに対して、正木直彦(東京美術学校校長)・岩村透(英語・西洋美術史)ら美校教授達による、工芸啓蒙を目的とする工芸団体「吾楽会」が、1909(明治42) 年に作られ、これが工芸界での発表機関、小団体続出の契機となったとされている。このような時代に、富本は美校で学び、渡英し帰国したのである。そして、社会主義思想家でもあったウィリアム・モリスの影響を受けていた富本は、当時の華美な工芸作家の作品を、高価な純正美術のような物として疎んじるのである。

1913(大正2)年の8月の終わりに、創作上の悩みを抱え た富本は、箱根に避暑中のリーチを訪ね清遊する。このとき「模様から模様をつくらず」という信条が芽生えたとされている。一般的にこの時代の工芸図案は、既成の模様に少し手を加えて作り出すか、下絵師が描いたものを使っていた。これは工芸家の善し悪しは、その技巧に求められていたためであった。南画の心得を持ち、留学でデザインを学んだ富本や、版画家であるリーチの、絵付けをした楽焼きが反響を得たのは、こうした当時の工芸家の図案に対して、斬新なものとして受けとめられたからであろう。「模様から模様をつくらず」という事は、既存の懐古的な美術工芸に対するアンチテーゼでもあったのである。また、そこにイデオロギーが存在したか否かは別として、宮内庁御買上という国家、もしくは資産家階級を受け入れ先とした旧工芸界に対して、この時の富本の「創造としての模様」は、庶民 社会に向けられていたのである。

*3陶芸は、1961年東京芸術大学工芸科において開講される。