2010年6月25日

現実からの創作・富本憲吉「模様から模様をつくらず」02

鍛金家関井一夫さんの論文を連続掲載します。

現実からの創作・富本憲吉「模様から模様をつくらず」02

関井一夫多摩美術大学工芸学科非常勤講師

出典:多摩美術大学文様研究室 [文様・デザイン・技術]2005 より

富本憲吉略歴

まずは、富本憲吉自身による「私の履歴書(昭和34年2月・日本経済新聞連載)」等を基に、その生涯を簡単に追ってみる。

富本憲吉は、1886(明治19)年に、奈良県生駒郡安堵町の地主の長男として生まれる。鉄道に勤務するかたわら、中国の文人風の趣味を持ち、南画や漢詩を作る趣味人でもあった父親から、中国陶磁器の知識や習字なども教えられる。

しかし、その父が早くに他界し、12歳で家督を相続する。母方の関係で南画を指南された経験からか、中学生の時に、日本美術院主催奈良絵画展に法隆寺金堂壁画模写を出品し入選する。

富本は、石工に興味を持つが、親類からの反対に合い、祖母の助言も手伝って、東京美術学校の図案科に入学する。数学を得意とした富本は、建築部の学生となる。早々に卒業制作を提出し、室内装飾の勉強、及びウィリアム・モリスの思想(*2)への興味等から、英国に1年半ほど私費留学する。この間ステンドグラスの実技を学び、またヴィクトリア・アンド・アルバート美術館に日参し、多くのスケッチを描く。他に写生旅行や、文部技官の助手を勤めた回教建築調査のためのインド旅行等で、見識を広めた後、1910( 明治43)年に帰国する。

帰国の途にあった船上で知りあった、画家レジナルド・ダーヅィーの紹介で、銅版画に使う鳥の子紙を、安価に求めることができる日本に居住していた、版画家バーナード・リーチと出会う。1911(明治44)年、美校の恩師である大沢三之助の勧めで、清水組に入社するがまもなく退社。このころ、リーチの下宿先の近くの茶碗屋で、楽焼きに絵付けをして拓殖博覧会に出品する。

「当時の楽焼きのきまりきった絵や模様とちがって私たちの描くものに斬新な魅力があったのだろう。」「拓殖博覧会で、いたずら半分に描いた茶碗や皿が、あのように評判を呼ばなかったならば、おそらく、一生陶芸の道を歩むようにはならなかっただろうと思う。」と富本が回想しているように、その楽焼きを新進作家小品展覧会で売ったところよく売れた事が、作陶活動のきっかけだったそうだ。この展覧会のディスプレイや会場用の椅子にも成功し、自宅にアトリエをつくり、木版画・染織・刺繍・革細工・木彫とさまざまな工芸の制作にとりかかる。

1911(明治44)年、楽焼きに興味を持ったりーチが、六代目尾形幹山に入門するにあたり、技法上の通訳も兼ねて付き添ったところ、自身も楽焼きに興味を持つことになる。
1913(大正2)年に楽焼き窯、1915(大正4)年に本窯を築く。早々に作品展を開くが、富本は陶芸については素人同然であった。リーチとの交流の中で、技法上の通訳の為の陶芸技法研究からはじまり、自身のための陶芸技法研究に至ったのである。まずは付近の溜池の底土を素地とし、村の染め物屋から紺屋灰をもらい粕薬として、当初は京都からロクロ職人を雇っていたそうだ。次に、白磁を作るために京都から原料を取り寄せ、研究のすえ磁器ができるようになる。しかし当時、模様のない磁器はあまり売れず、染め付けをはじめる。染め付けの模様は、おりにふれ描いた自身のスケッチからつくる。この頃「模様から模様をつくらず」という姿勢を示したとされている。そして、1921(大正10)年頃には、殆ど総ての陶芸技法に手を染めていたとされている。

1926(大正15)年から1946(昭和21)年まで東京に住む。この間、信楽・波佐見・益子・瀬戸・京都・九谷という窯業地を訪れ、各地の焼き物の研究と、それぞれの土地の焼き物に絵付けを施し頒布会を開く。一方で、民芸運動への参加、国画創作協会への参加から国画会工芸部立ち上げに関わり、帝国芸術院会員となり、1944(昭和19)年、東京美術学校教授就任。しかし、民芸との訣別、1945(昭和20)年、国画会退会・帝国芸術院会員辞任・東京美術学校教授辞任というように、社会的活動を盛んに行うも、終戦を期にその精算をする。

「昭和元年から終戦まで東京で過ごした20年間は、社会の荒波にはもまれ、そのうえ美術界の喧騒の中に身を置いて多事多難であった。だが、その間にも、私はひとり自分の開くべき道を一歩々々、切り開いて行った。」と本人が振り返るように、富本のもう一つのテーマである「良質で安価な焼き物を世に広める」ために量産への道を歩んでいたのである。

その後、奈良から京都に移り、1949(昭和24)年、京都市立美術専門学校教授(翌年から京都市立芸術大学)となり、1963(昭和38)年、同大学長に就くも他界する。京都では富本デザインによる「平安窯」「富泉」という量産品が製造される。また1955(昭和30)年に、第一回重要無形文化財(人間国宝)に指定される。

奈良の生家では窯もなく、焼き物を作るために京都まで通う。戦後の農地改革で田畑を失い「遊んでいては食べていかれない。画を描いたり焼き物をしたりしてほそぼそと暮らした。」「世間が落ち着くにつれ、私の生活もだんだんに改善された。そして小さいながらも市中に一軒を構える事ができた。生活にゆとりができるにしたがい、陶芸の仕事も知らず知らず手のこんだものに移ってきた。大正時代、大和にいるころから、しばしば手掛けたことのある色絵金銀彩も戦後7、8年して、ようやく本格的に取り組むことができるようになった。」と戦後奈良に戻ってからの生活を述べている。1955(昭和30)年に人間国宝に指定された時は、この色絵金銀彩( 図・1)の技術保持者として選ばれるのである。

我が国最初の陶芸美術としての陶器部が開設された京都市立美術大学の教授に就任し、自身の作陶と併せて生活が向上し、同時に若い学生を世に送りだす事となり、制作と製産の双方により充実した道を求めたのであろう。「いま、私は一つの試みをしている。それは、私がデザインした花びん、きゅうす、茶碗といったような日用雑器を腕の立つ職人に渡して、そのコピーを何十個、何百個と造ってもらうことである。」富本の目指した「良質で安価な焼き物を世に広める」仕事は、この「平安窯」「富泉」によって成されたかのようであった。

*2ウィリアム・モリス(1834~1896)イギリスの詩人、デザイナー。
マルクス主義者。アーツ・アンド・クラフツ運動を起す。



続く