2010年7月3日

現実からの創作・富本憲吉「模様から模様をつくらず」04

鍛金家関井一夫さんの論文を連続掲載します。

現実からの創作・富本憲吉「模様から模様をつくらず」04

関井一夫 多摩美術大学工芸学科非常勤講師

出典:多摩美術大学文様研究室 [文様・デザイン・技術]2005 より


その2・『生業(なりわい)』

一般的に生産者は、製品を何らかの形で販売して利益を得ることで生計を立てる。この生計を立てることができて、その仕事は生業となるのである。職人の世界では、製造技術・意匠の他に、礼儀作法から原材料の仕入れ、問屋回り等々の諸々の生業とするための方法も伝えられてきた。徒弟制度は、親方の生産を助ける代わりに、その仕事で社会 の中で生きてゆくための、生業の習得をする契約関係であった。これが産地という職人の集合体であるなら、その地域 社会の労働力として生活してゆくのである。これに対して美術学校では、先生の技術や美意識を学ぶ事はしても、生業としての教育を受けるわけではない。卒業後は、家業を継ぐべく美術学校に籍を置いた者でないなら、生業としての道は険しいものであったはずである。帰国した富本も一時就職するが、退職後は何らかの生業を求めなければならなかった。

若き工芸家達が、師から教えを受けようと、富本の家を訪ねた際の逸話がある。富本は、彼等の帰りしなに、自作の器を新聞紙にくるみ、「困った時は生活の足しになるだろうから」と持たせたそうである。また内藤・増田氏は、富本の香炉の火屋を多く製作している。増田氏は、200点余りの火屋を製作したそうだが、「増田君のものはよく売れるから」と言われたそうである。これらは、「遊び半分に絵付けを施した楽焼きが、面白いように売れたことが陶芸に入るきっかけでもあった」と本人が述べている事と同じように、富本が実生活というものを経済面から現実的にとらえていたことの現れである。自らが、技術的にも経済的にも苦労したからこそ、若い工芸家達に作品を分け与えたのであり、作品が売れてこそ創作が成り立つ事を、身をもって知っていたのである。

富本は奈良の旧家の長男として生まれ育っている。田村氏にしても栃木県佐野の人形屋の子息であり、増田氏も埼玉県中尾の旧家の子息である。そのような意味では、当時として裕福な家庭に育ったわけだが、趣味道楽で創作を続 けていたわけではない。田村氏は、1941(昭和16)年、23歳で美術学校卒業後、大阪堺の商業学校のデザイン教師となり、翌1942(昭和17)年、24歳から27歳までの戦争体験後、1946(昭和21)年、京都で輸出陶器のデザイナーとして職につく。これがきっかけとなり作陶の道に入るが生活は困窮し、佐野の赤見焼き創業に関わるために帰郷する。その後、益子の窯業指導所に勤務し、1953印召和28)年、35歳で作家活動に入る。増田氏にしても、1936(昭和11)年、27歳で美術学校の彫金部研究科を卒業後、制作活動に入るが、平行して1944(昭和19)年、35歳から28年間、県立高校の教職についている。家業としての工芸家を受け継いだわけではない、新興の工芸作家は、生活基盤から築き上げなければならなかったのである。

留学から帰国した富本は、英国でのスケッチや諸々の工芸品を作り販売する。富本の器作りは、良い図案の器を安価で提供しようと、生産コストを引き下げ、生産力を引き上げるために産地を活用する。特別な焼き物の師匠を持たない富本にとって産地での仕事は、自身の作陶の幅を広げ るものであったが、これは庶民生活を豊かにするという大儀と共に、自らの生活を支える基盤としての作陶でもあったのである。さらに晩年に、図案を第一義に置く事で、戦後のデザイン潮流の先駆けのように、富泉・平安窯といった「富本の模様」を看板にした富本ブランドが生まれる。 富本は、楽焼きの絵付けが売れたという、明快な社会的 評価を受けた時点で、社会に対して、陶芸で何か出来るかと考えたはずである。「模様から模様をつくらず」「庶民生活を豊かにする安価な良品陶器の頒布」は、社会に対する革新者富本憲吉の筋道であっが、これは、生業と深く関係しながら、行われたことなのである。 こうした「模様から模様をつくらず」という信条から生まれた、新しき模様をもって、陶芸で身を立てるべく行っ た仕事は、マルクス主義者でもあったウィリアム・モリス に影響を受けた富本であるなら、さしずめ、「経済活動の上部に精神的な創作活動を据えるのではなく、創作活動と経済活動を並列的に推し進めた」といえるのではないだろうか。これは人間の主体性と創造力を、経済活動と合致させ実践した尊い仕事といえる。

美術において、また工芸においても、作家の経済活動について触れられる事は少ない。経済活動は、創作活動の下位にあるものとして位置づけられているからであろうか。 しかし、いつの時代でも、創作が生業とならなければ、生計を支える為の、何らかの収入を得なければならない。つまり極論すれば、創作自体が副業、もしくは非経済活動の産物である事もあるのである。美術・工芸作品において、その美的価値が、副業でなされたものであるか、生業であるかは 問われるものではないと思うが、生業として成り立つ仕事てなければ、特別な個人という枠を越えた後には、いつの日かおのずと衰退してゆくのであろう。

富本の作陶と頒布のスタイルは、今日の一般的な陶芸家のスタイルの、原型ともいえるのではなかろうか。一般的には、公募展という展覧会で手の込んだ作品を発表し名を上げ、頒布会で比較的安価な陶器を販売する一方で、学校 や陶芸教室のような教育の場にも身を置くケースもあるのであるが、しかし、そこには富本のような理念を伺い知ることは難しい。生業のスタイルを模倣しているにすぎないように思われる事すらある。成功者の方法をトレースすることは、賢明な選択であり、同時に容易い事と思われるが、 その理念まで伴わなければ、明治・大正期に工芸が陥った嗜好品的な物品になりかねない。その理念の現れが「模様から模様をつくらず」という創造性なのである。

若き工芸家が富本の元に集ったのは、こうした富本流の生業のやり方にのみ惹かれたのではない。それは増田・田 村両氏が富本のような生業の方法をとらなかった事からも明らかである。田村氏は、量産品の道も自らの手足となるような弟子も求めなかった。増田氏は、96歳となる現在も、日々自身の手で彫っているのである。「良き師、良き友、良き本」が大切と、常々増田氏は語ってくださるが、生活という事も含めて創作の道を示してくれた、良き師である富本 から、それぞれに工芸の道を進んだのであろう。そこには 「富本の求めた美」が通じているように思われるのである。