2010年7月7日

191-現実からの創作・富本憲吉「模様から模様をつくらず」05


鍛金家関井一夫さんの論文を連続掲載します。

現実からの創作・富本憲吉「模様から模様をつくらず」05

関井一夫 多摩美術大学工芸学科非常勤講師

出典:多摩美術大学文様研究室 [文様・デザイン・技術]2005 より




その3・『写生』

富本は模倣的に様式化された模様を批判し、写生をとおして模様を創造する道を示した。「もっと自然から直接図案を学んでいいと思う」と述べ、模様の元となった、人の力のおよばない自然の造形から、写生をとおして美を学び取る姿勢を説いている。

若き日の増田氏は、富本から「僕は見なくても描けるよ」 と言われたそうである。これは同じ図案を幾度となく描き 続けたから成せることなのであるが、自らの写生が模様となるまでの、図案の熟成を意味している言葉である。実際に、代表的模様の一つである「竹林月夜(図2)」は、1916(大正5)年に創案され、1937(昭和12)年に3000枚の菓子皿としての注文を受けており、それだけでも、幾度となく描き続けることで熟成されたものかを推測できよう。

図・2富本憲吉「染付竹林月夜模様角筥」 「富本憲吉の陶磁器模様」19頁

 一般の人々が、生涯において同じ図形を意識をもって書き続ける行為は、自分の署名をすることくらいであろうか。 子供の時から繰り返し書き続ける名前の字体は、その人の 癖や人柄さえも映し出すといわれる。富本の写生も、模様 として繰り返し描くことで「富本の模様」となった。しかし、写生から図案をつくり、繰り返し描き模様と成すといっても、その行為自体に意味があるのではなく、卓越した 画力をもって行われた時に、ようやく美にたどり着けるか どうかということである。繰り返し描き続けた意義は、模様としての図形の純化と画質を極める事であったのである。 2004年から2005年にかけて、東京近代美術館工芸館で開催された、「人間国宝の日常のうつわ」展において、富本の最晩年の量産品見本としての醤油注と、職人の手による富泉・ 平安窯の醤油注を見比べる機会を得たが(図・3)、そこに画力の差を感じずにはいられなかった。これは腕の立つ職人がどんなに器用に真似ても、富本風の模様になるだけで、 富本の模様にはならなかったのである。自身の写生から模様を創出した富本は、その画力も含め「模様」を問うたのである。

富本の模様は多岐におよぶが、写生のモチーフにしたものには、前述の「竹林月夜」のように、人工物である建物のある風景もある。このような人工物を、美を学び取る為のモチーフとして扱った事は、自然科学的な意味合いでの自然の造形美から学ぶという以外に、人の情緒も対象としていたから現れた事なのである。この人工物に限って、今日的なモチーフで述べるとすれば、都会のビル群や、その廃棄物であるゴミからでさえも、美を感じ取ることはできる。都市の建築物群からは、幾何学的な造形美を見ることがで きるが、その廃棄物からは、それ自体が美しいのではなくその物体の背景から美を感じ取ることができるのである。

図 ・ 3 富本憲吉  「色絵・染付醤油注」と富泉「染付・色絵醤油注」 
「人間国宝の日常のうつわ・もう一つの富本憲吉」74頁

これは、美術的感性というよりも文学的感性に近い。富本のスケッチには、絵と共に詩文がそえられていることがあるが(図・4)、これは、見たものを美しいと感じたその時の心情を、絵と共に写したものである。富本の南画の心得は、そうした文学性を持つものであり、その文学性も含めて模 様としていったのである。

増田氏は、幼い頃の思い出として兎を描き続け(図・5)、 田村氏も、個人の思い出として柿や郷里の風景を描く。それらは、富本同様、個人的な詩情世界を表すものを模様の対象として用いたといえよう。増田氏は、浦和中学の旧友である、画家の高田誠氏から「工芸にはロマンが無い」と言われたそうである。増田氏の叙情的な模様は、その答えであったようでもある。

田村氏は、「自分は、皿というキャンバスの上に絵を描いているつもりだ」と話してくれたことがある。大学の会議から研究室にもどられた先生の藁半紙の議事録には、退屈な会議だったのであろうか、よく円や四角の中に、葡萄や梅の図案が幾つも描かれていた。好物のコーヒーを召し上がると「じゃあ」と言って帰られるのだが、たまにスケッチをそのまま忘れて行かれることがあり、片付ける際に拝見したものである。そこで後日、図案について尋ねたところ、上記のような返答が帰ってきた。焼き物に施した絵付けと同様な、勢いの有る筆圧とスピード感のある鉛筆画であったと記憶している。その時まで、伝統工芸品の模様として絵付けされたものが、絵画であるなどとは思ってもいなかった筆者は、技術や意匠を受け継ぐ伝承工芸と異なるものを感じたものである(図・6)。

陶板という表現スタイルは、1921(大正10)年に、富本が 壁掛けとして考案したとされている。もし、陶板上の「竹林月夜」を見た人に、これは模様か絵かと尋ねれば、絵という答えがかえってくる事は容易に想像がつく(図・5)。写生・模様・絵画という結びつきは、根っから陶器作りを志したわけではなかった、富本らしい発想と考えられる。今日の工芸においては、用途は工芸であるための絶対条件ではなく、先人達が美術界からはじかれ、美術と肩を並べようとした美術工芸から、工芸技術を用いた造形美術に移行しつつあると言えるのではなかろうか。だとすれば、これは、用途の有無は問題にせず、陶芸技術を用いた絵画ともいえるのではないだろうか。ただし、それは皿を板に置き換えることで絵画としたという形式上の問題ではない。富本にしろ、田村氏にしろ、その画質に単なる転写ではない画の力があったのである。

富本は、模様の創案の元として写生を勧めている。写生は、観たものをありのままに写しとることである。しかし富本は、観たものを忠実に再現する技巧を第一義的な問題にしてはいない。増田氏は「花を見て、この花は美しいなと思ったら写生しなさい」と教えられたそうだ。「花を写生しなさい」ではなく「美しいと思ったら写生する」のである。つまり花を描く技術のために写生するのではない。また、美しいといわれているものを描けとも言われていない。あくまでも「主体的に美しいと自分が感じたものを、客観的に見て知れ」ということである。これは、模様をつくる為に写生するのではない、美しいと感じたら写生して模様をつくるのである。富本の言う写生の勧めは、模様の作り方を指しているのではなく、模様の元になる美を悟る事を指しているのであるそして、写生の対象となるのは、自分が美しいと感じた等身大の世界なのである。人は同じものを観ても感ずる事は様々である。まして美しいと感じたところで、創作が美に至るかどうかは 、作者次第の厳しい道のりなのである。自らが美しいと悟ったことから、美の追及が生まれるのてある。