2010年7月30日
202-
肩の腫れ(正確には肩関節から肩甲骨と鎖骨の間)がひいてある程度動かせるようになってきた。テーピングでサポートしているが、かぶれてきて痒いので、昨日一日はテーピングなしですごす。右胸は黄色い痣が広範囲に広がっていて、ちょっと気持ち悪いけど、打撲の治っていく過程の色見本となっていて興味深い。痛めたであろう靭帯は、まだ痛くて制作にとりかかれるほど治癒はしていない。そんなところに友人から仕事の依頼。ありがたいやら・・・ありがたや・・・。注文の仕事2件終っていないけどどうするか。とりあえず前から欲しかった本を資料用に発注した。今日は市内の博物館に行ってみようと思う。
2010年7月26日
201-fireworks show
だいぶ肩のけがはよくなってきている。テーピングでサポートしているのもあるが、日常生活に支障がなくなりつつあるが、油断は禁物。カメラを使えるようになった。
土曜、日曜と夏祭りがあった。市内にはオリオンビールの工場があるので、ビール祭りといわれているが、祭りの名前にビールという言葉がいつのまにかなくなっている。いつ無くなったのだろうか。それとも、もともとなかったのか、よくわからないが、地元の人にはビール祭りで通用する。今年は怪我のせいで、会場には行かず、会場近くのマンションに住む知人の宴にお呼ばれした。
2010年7月23日
200-関井一夫展、明日まで
関井一夫さんの展覧会がいよいよ明日までです。数年来関井さんが粘り強く試みてきた展開の集大成ではないかと思っています。銀座方面へお出かけの方は、ぜひご高覧ください。
http://yaslog-okinwa.blogspot.com/2010/07/blog-post_14.html
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199-右手
右肩はかなり痛みを伴うが、動くようになった。しかし、まだ自由にというわけではないし、重いものを顔から上にあげることはできない。しょうがないから、撮影でもと思ったが、カメラをにぎって目の高さまで持ち上げられなかった。
ふと、左手で!とおもったが、カメラのシャッターボタンとかグリップって、ボディの右側にしかない。カメラって右手が使えることが前提の道具なんだということに気がついた。とても便利になのにとても不自由な道具。
現状として、カメラは満足に使えないが、車の運転はなんとかなる。肩の可動範囲はひろがっているが、動かさないようにかばうものだから、そのまわりの筋肉に負担が出始めてきた。そんなところ。
ふと、左手で!とおもったが、カメラのシャッターボタンとかグリップって、ボディの右側にしかない。カメラって右手が使えることが前提の道具なんだということに気がついた。とても便利になのにとても不自由な道具。
現状として、カメラは満足に使えないが、車の運転はなんとかなる。肩の可動範囲はひろがっているが、動かさないようにかばうものだから、そのまわりの筋肉に負担が出始めてきた。そんなところ。
2010年7月21日
198-転倒
不注意で転倒して、右肩を強打してしまった。
他にぶつけたところがないので、
全体重を右肩で受け止めた形。
その夜は、痛みでまったく動けず、
翌日、休日だったので
這うように救急外へ行き、診察してもらった。
幸い、骨、関節には異常がなかったが、
「靭帯、筋肉を痛めているおそれがあるので、
明日整形外科でみてもらってください」
次の日には、いくらか動くようになったので、
自力で病院へ。2時間半待って診察2分・・・
靭帯が切れている様子はないので、
強く打っていためたのでしょう、と。
しばらくおとなしくしていてください。
完全に自分の不注意なので反省するしかない。
しばらくは、痛みとつきあう生活になる。
まだ、肩甲骨と鎖骨の間は腫れている。
他にぶつけたところがないので、
全体重を右肩で受け止めた形。
その夜は、痛みでまったく動けず、
翌日、休日だったので
這うように救急外へ行き、診察してもらった。
幸い、骨、関節には異常がなかったが、
「靭帯、筋肉を痛めているおそれがあるので、
明日整形外科でみてもらってください」
次の日には、いくらか動くようになったので、
自力で病院へ。2時間半待って診察2分・・・
靭帯が切れている様子はないので、
強く打っていためたのでしょう、と。
しばらくおとなしくしていてください。
完全に自分の不注意なので反省するしかない。
しばらくは、痛みとつきあう生活になる。
まだ、肩甲骨と鎖骨の間は腫れている。
2010年7月16日
197-関井一夫、個展のお知らせ
「関井一夫の眼差し」展一鍛金の未来を拓く-
2010年7月15日(木)~24日(土) 日曜・祝日は休廊
11:30AM~7:00PM
ギャラリー田中
東京都中央区銀座7−2−22同和ビル1F
ぜひご高覧おねがいします。
196-無題
雲は多いけど、夏の空
まぶしい。
銀で小さなパーツを作る。
いずれはキャストで量産するか、
既製品を探すかになるだろうな。
仕事先の植え込みに何本かサガリバナが植えられている。
先月からぽつぽつ咲いていたけど、
昨夜は、盛大に咲いていた。
まるでブラシのようだった。
2010年7月15日
195-セミとカマキリ
暑い日が続いています。
アトリエは35℃越え。
扇風機を回しているけど、
暑い風しかこない・・・
外の方がまだ涼しい気がする。
ふと、気配がして、建物の裏へ廻ると、
緊張した空気が流れていた。
セミは、逃げようと羽をばたつかせる。
カマキリは、がっちり前脚のカマでとらえて放さず、
少しづつ食べていた。
どちらも生きていくために必死であった。
セミの命は、カマキリの命となって生きていく。
2010年7月11日
194-現実からの創作・富本憲吉「模様から模様をつくらず」06 最終回
鍛金家関井一夫さんの論文を連続掲載 します。
現実からの創作・富本憲吉「模様から模様をつ くらず」06
関井一夫 多摩美術大学工芸学科非常勤講師
出典:多摩美術大学文様研究室 [文様・デザ イン・技術]2005 より
結びに
富本憲吉の生涯の仕事を駆け足で見てくると、「模様から 模様をつくらず」という創造の信条・生業としての創作・写生からの模様創出と、いずれも現実の世界から物事を観て、 そこから理念を導き出す、言わば、理念と生活の中で懸命 に創作を続けた芸術家の姿が感じ取られてくるのである。
さらに、美術社会のための美術、もしくは工芸社会のための工芸という閉鎖的かつ観念的な社会ではなく、人間社会に関わる工芸を現実的に実践して来た、上澄みとしての、 温かくも凛とした作陶が観えてくるのである。
富本憲吉が、バーナード・リーチに宛てた書簡の中に「We are working very hard like Devil.(鬼のように働く)」 という句があるという。これは富本が素人同然から陶芸を始め、猛然と仕事をする実感を表したものとされている。 田村耕一氏の、昭和60年の日本橋高島屋での作陶展に際して、田村氏自身の書いた下記の短文がある。
エンマ様が
「君の職業は」
ハイ
「陶器造りでした」
針の山の先の火の山を
さして
「そちらに」と
私はまたまたここでも
陶器造りをさせられるのかと
悲しい顔をしたら
頭をぽかんとたたかれた
筆者には、このエンマ様は富本憲吉を指しているように思えてならないのである。
【参考文献】
「富本憲吉の陶磁器模様」富本憲吉記念館編グラフィック社
「東京美術学校の歴史」日本文教出版
「私の履歴書・文化人6」日本経済新聞社
「人間国宝の工芸一増田三男・内藤四郎・富本憲吉一身辺から生まれる美」うらわ美術館
「創造の手わざ・近代工芸栃木の七星」栃木県立美術館
「人間国宝の日常のうつわ・もう一つの富本憲吉」東京国立近代美術館
「第24回田村耕一陶展」図録
2010年7月10日
193-新しめの作業
銅ナベの作業の合間に自分の制作にとりかかる。
あいかわらず雑用に追われているし、
怠け癖もちょっとでてきて、くじけそうだ。
そんなときは、怠けたくなる前に作業にとりかかる。
友人に企画書をいくつか出してと頼まれる・・・
これは今月中に提出予定。
雑用の一つだなと思いながら。
すぐには仕事にならないだろうが、
種まきといったところか。
2010年7月8日
2010年7月7日
191-現実からの創作・富本憲吉「模様から模様をつくらず」05
鍛金家関井一夫さんの論文を連続掲載します。
現実からの創作・富本憲吉「模様から模様をつくらず」05
関井一夫 多摩美術大学工芸学科非常勤講師
出典:多摩美術大学文様研究室 [文様・デザイン・技術]2005 より
その3・『写生』
富本は模倣的に様式化された模様を批判し、写生をとおして模様を創造する道を示した。「もっと自然から直接図案を学んでいいと思う」と述べ、模様の元となった、人の力のおよばない自然の造形から、写生をとおして美を学び取る姿勢を説いている。
若き日の増田氏は、富本から「僕は見なくても描けるよ」 と言われたそうである。これは同じ図案を幾度となく描き 続けたから成せることなのであるが、自らの写生が模様となるまでの、図案の熟成を意味している言葉である。実際に、代表的模様の一つである「竹林月夜(図2)」は、1916(大正5)年に創案され、1937(昭和12)年に3000枚の菓子皿としての注文を受けており、それだけでも、幾度となく描き続けることで熟成されたものかを推測できよう。
図・2富本憲吉「染付竹林月夜模様角筥」 「富本憲吉の陶磁器模様」19頁
一般の人々が、生涯において同じ図形を意識をもって書き続ける行為は、自分の署名をすることくらいであろうか。 子供の時から繰り返し書き続ける名前の字体は、その人の 癖や人柄さえも映し出すといわれる。富本の写生も、模様 として繰り返し描くことで「富本の模様」となった。しかし、写生から図案をつくり、繰り返し描き模様と成すといっても、その行為自体に意味があるのではなく、卓越した 画力をもって行われた時に、ようやく美にたどり着けるか どうかということである。繰り返し描き続けた意義は、模様としての図形の純化と画質を極める事であったのである。 2004年から2005年にかけて、東京近代美術館工芸館で開催された、「人間国宝の日常のうつわ」展において、富本の最晩年の量産品見本としての醤油注と、職人の手による富泉・ 平安窯の醤油注を見比べる機会を得たが(図・3)、そこに画力の差を感じずにはいられなかった。これは腕の立つ職人がどんなに器用に真似ても、富本風の模様になるだけで、 富本の模様にはならなかったのである。自身の写生から模様を創出した富本は、その画力も含め「模様」を問うたのである。
富本の模様は多岐におよぶが、写生のモチーフにしたものには、前述の「竹林月夜」のように、人工物である建物のある風景もある。このような人工物を、美を学び取る為のモチーフとして扱った事は、自然科学的な意味合いでの自然の造形美から学ぶという以外に、人の情緒も対象としていたから現れた事なのである。この人工物に限って、今日的なモチーフで述べるとすれば、都会のビル群や、その廃棄物であるゴミからでさえも、美を感じ取ることはできる。都市の建築物群からは、幾何学的な造形美を見ることがで きるが、その廃棄物からは、それ自体が美しいのではなくその物体の背景から美を感じ取ることができるのである。
図 ・ 3 富本憲吉 「色絵・染付醤油注」と富泉「染付・色絵醤油注」
「人間国宝の日常のうつわ・もう一つの富本憲吉」74頁
これは、美術的感性というよりも文学的感性に近い。富本のスケッチには、絵と共に詩文がそえられていることがあるが(図・4)、これは、見たものを美しいと感じたその時の心情を、絵と共に写したものである。富本の南画の心得は、そうした文学性を持つものであり、その文学性も含めて模 様としていったのである。
増田氏は、幼い頃の思い出として兎を描き続け(図・5)、 田村氏も、個人の思い出として柿や郷里の風景を描く。それらは、富本同様、個人的な詩情世界を表すものを模様の対象として用いたといえよう。増田氏は、浦和中学の旧友である、画家の高田誠氏から「工芸にはロマンが無い」と言われたそうである。増田氏の叙情的な模様は、その答えであったようでもある。
田村氏は、「自分は、皿というキャンバスの上に絵を描いているつもりだ」と話してくれたことがある。大学の会議から研究室にもどられた先生の藁半紙の議事録には、退屈な会議だったのであろうか、よく円や四角の中に、葡萄や梅の図案が幾つも描かれていた。好物のコーヒーを召し上がると「じゃあ」と言って帰られるのだが、たまにスケッチをそのまま忘れて行かれることがあり、片付ける際に拝見したものである。そこで後日、図案について尋ねたところ、上記のような返答が帰ってきた。焼き物に施した絵付けと同様な、勢いの有る筆圧とスピード感のある鉛筆画であったと記憶している。その時まで、伝統工芸品の模様として絵付けされたものが、絵画であるなどとは思ってもいなかった筆者は、技術や意匠を受け継ぐ伝承工芸と異なるものを感じたものである(図・6)。
陶板という表現スタイルは、1921(大正10)年に、富本が 壁掛けとして考案したとされている。もし、陶板上の「竹林月夜」を見た人に、これは模様か絵かと尋ねれば、絵という答えがかえってくる事は容易に想像がつく(図・5)。写生・模様・絵画という結びつきは、根っから陶器作りを志したわけではなかった、富本らしい発想と考えられる。今日の工芸においては、用途は工芸であるための絶対条件ではなく、先人達が美術界からはじかれ、美術と肩を並べようとした美術工芸から、工芸技術を用いた造形美術に移行しつつあると言えるのではなかろうか。だとすれば、これは、用途の有無は問題にせず、陶芸技術を用いた絵画ともいえるのではないだろうか。ただし、それは皿を板に置き換えることで絵画としたという形式上の問題ではない。富本にしろ、田村氏にしろ、その画質に単なる転写ではない画の力があったのである。
富本は、模様の創案の元として写生を勧めている。写生は、観たものをありのままに写しとることである。しかし富本は、観たものを忠実に再現する技巧を第一義的な問題にしてはいない。増田氏は「花を見て、この花は美しいなと思ったら写生しなさい」と教えられたそうだ。「花を写生しなさい」ではなく「美しいと思ったら写生する」のである。つまり花を描く技術のために写生するのではない。また、美しいといわれているものを描けとも言われていない。あくまでも「主体的に美しいと自分が感じたものを、客観的に見て知れ」ということである。これは、模様をつくる為に写生するのではない、美しいと感じたら写生して模様をつくるのである。富本の言う写生の勧めは、模様の作り方を指しているのではなく、模様の元になる美を悟る事を指しているのであるそして、写生の対象となるのは、自分が美しいと感じた等身大の世界なのである。人は同じものを観ても感ずる事は様々である。まして美しいと感じたところで、創作が美に至るかどうかは 、作者次第の厳しい道のりなのである。自らが美しいと悟ったことから、美の追及が生まれるのてある。
190-鷺谷トモユキ「Knock.. .」展へ
ふたたび鷺谷さんの展覧会へ
彼が予備校時代に夏季講習会で教えたことがあるらしいが、
微妙に当時の記憶がなく、
初対面の気分。
短い時間でしたが、
いろいろお話をしました。
意外なところで、
共通の知人がいたりして、
面白かった。
がんばっている人と話をするとエネルギーをもらいます。
がんばらねば。
展覧会は7日まで。→http://yaslog-okinwa.blogspot.com/2010/06/blog-post_3791.html
2010年7月6日
夏休み講座のお知らせ
昨年にひきつづき今年も夏休み講座を
やらせてもらうことになりました。
小学1年生から6年生までが対象。1年生と6年生じゃ、
意識も出来ることもすごい開きがあるから
どのあたりに共通のポイントを置けばいいのか、
思案のしどころ。
でも予定調和は面白くないだろう。
楽しめて夏休みの宿題がひとつ片付けばいいか、
くらいのスタンスで参加ください。
平成22年度名護中央公民館夏休み講座子ども絵画教室
8月9日(月)~8月13日(金)の全5回
Aコース 午前の部 午前10時~12時
Bコース 午後の部 午後2時~4時
場所:名護中央公民館工作室
対象者:小学生
人数:20名(応募多数の場合抽選になります)
趣旨:絵を描く基本を学び、絵画に興味を持ちながら創造性を高める
午後の部を担当します。
午前の部は、具志堅誓謹先生が担当。
2010年7月5日
初海水浴
夕方から近くのビーチへお手軽海水浴。
昼間は暑くて、日差しも強いから、
涼しくなった夕方からの海水浴が定番。
普段はおだやかなビーチも、昨日は波が高くて、
ざっぱんざっぱんいってます。
海の濁りもひどくて、いまいち。
それでも子どもたちは、普段着でたのしんでました。
泳ぐというより水遊びですね。
夕暮れの光がきれいです。
2010年7月4日
祭り本番
7/3 土、祭り本番。
雲が低く凄い早さで動くので、
雨が降るかなと思いながらも、
坊主たちは、
あやしい踊りを繰り広げていました。
楽しそうでなにより。
今年は泣かずに、踊りの輪に入っていくので、
一安心。
Cyber-shotのスイングパノラマで、会場の雰囲気を撮影。
しかし、スイングパノラマでは、
こういう群衆は不向き。
よくみると、
あちこちで身体が半分しか写っていない人量産。
皆静止していないところを、
たくさんシャッターを切って合成しているから、
しょうがないだろうけどね。
2010年7月3日
時間切れ
大雨洪水雷警報が出たりして、
作業できなかったり、
通常業務やらで、
時間が作れず、
ついに時間切れ。
制作環境はとても大事だ。
雨風吹きさらしでは、いろいろ大変。
今日が本番で、いったいどう使われるのか。
持っていったら、できてるじゃないですかって。
んー!。やりたいこと半分もできてないけど、微妙。
見上げたら、星空。
現実からの創作・富本憲吉「模様から模様をつくらず」04
鍛金家関井一夫さんの論文を連続掲載します。
現実からの創作・富本憲吉「模様から模様をつくらず」04
関井一夫 多摩美術大学工芸学科非常勤講師
出典:多摩美術大学文様研究室 [文様・デザイン・技術]2005 より
その2・『生業(なりわい)』
一般的に生産者は、製品を何らかの形で販売して利益を得ることで生計を立てる。この生計を立てることができて、その仕事は生業となるのである。職人の世界では、製造技術・意匠の他に、礼儀作法から原材料の仕入れ、問屋回り等々の諸々の生業とするための方法も伝えられてきた。徒弟制度は、親方の生産を助ける代わりに、その仕事で社会 の中で生きてゆくための、生業の習得をする契約関係であった。これが産地という職人の集合体であるなら、その地域 社会の労働力として生活してゆくのである。これに対して美術学校では、先生の技術や美意識を学ぶ事はしても、生業としての教育を受けるわけではない。卒業後は、家業を継ぐべく美術学校に籍を置いた者でないなら、生業としての道は険しいものであったはずである。帰国した富本も一時就職するが、退職後は何らかの生業を求めなければならなかった。
若き工芸家達が、師から教えを受けようと、富本の家を訪ねた際の逸話がある。富本は、彼等の帰りしなに、自作の器を新聞紙にくるみ、「困った時は生活の足しになるだろうから」と持たせたそうである。また内藤・増田氏は、富本の香炉の火屋を多く製作している。増田氏は、200点余りの火屋を製作したそうだが、「増田君のものはよく売れるから」と言われたそうである。これらは、「遊び半分に絵付けを施した楽焼きが、面白いように売れたことが陶芸に入るきっかけでもあった」と本人が述べている事と同じように、富本が実生活というものを経済面から現実的にとらえていたことの現れである。自らが、技術的にも経済的にも苦労したからこそ、若い工芸家達に作品を分け与えたのであり、作品が売れてこそ創作が成り立つ事を、身をもって知っていたのである。
富本は奈良の旧家の長男として生まれ育っている。田村氏にしても栃木県佐野の人形屋の子息であり、増田氏も埼玉県中尾の旧家の子息である。そのような意味では、当時として裕福な家庭に育ったわけだが、趣味道楽で創作を続 けていたわけではない。田村氏は、1941(昭和16)年、23歳で美術学校卒業後、大阪堺の商業学校のデザイン教師となり、翌1942(昭和17)年、24歳から27歳までの戦争体験後、1946(昭和21)年、京都で輸出陶器のデザイナーとして職につく。これがきっかけとなり作陶の道に入るが生活は困窮し、佐野の赤見焼き創業に関わるために帰郷する。その後、益子の窯業指導所に勤務し、1953印召和28)年、35歳で作家活動に入る。増田氏にしても、1936(昭和11)年、27歳で美術学校の彫金部研究科を卒業後、制作活動に入るが、平行して1944(昭和19)年、35歳から28年間、県立高校の教職についている。家業としての工芸家を受け継いだわけではない、新興の工芸作家は、生活基盤から築き上げなければならなかったのである。
留学から帰国した富本は、英国でのスケッチや諸々の工芸品を作り販売する。富本の器作りは、良い図案の器を安価で提供しようと、生産コストを引き下げ、生産力を引き上げるために産地を活用する。特別な焼き物の師匠を持たない富本にとって産地での仕事は、自身の作陶の幅を広げ るものであったが、これは庶民生活を豊かにするという大儀と共に、自らの生活を支える基盤としての作陶でもあったのである。さらに晩年に、図案を第一義に置く事で、戦後のデザイン潮流の先駆けのように、富泉・平安窯といった「富本の模様」を看板にした富本ブランドが生まれる。 富本は、楽焼きの絵付けが売れたという、明快な社会的 評価を受けた時点で、社会に対して、陶芸で何か出来るかと考えたはずである。「模様から模様をつくらず」「庶民生活を豊かにする安価な良品陶器の頒布」は、社会に対する革新者富本憲吉の筋道であっが、これは、生業と深く関係しながら、行われたことなのである。 こうした「模様から模様をつくらず」という信条から生まれた、新しき模様をもって、陶芸で身を立てるべく行っ た仕事は、マルクス主義者でもあったウィリアム・モリス に影響を受けた富本であるなら、さしずめ、「経済活動の上部に精神的な創作活動を据えるのではなく、創作活動と経済活動を並列的に推し進めた」といえるのではないだろうか。これは人間の主体性と創造力を、経済活動と合致させ実践した尊い仕事といえる。
美術において、また工芸においても、作家の経済活動について触れられる事は少ない。経済活動は、創作活動の下位にあるものとして位置づけられているからであろうか。 しかし、いつの時代でも、創作が生業とならなければ、生計を支える為の、何らかの収入を得なければならない。つまり極論すれば、創作自体が副業、もしくは非経済活動の産物である事もあるのである。美術・工芸作品において、その美的価値が、副業でなされたものであるか、生業であるかは 問われるものではないと思うが、生業として成り立つ仕事てなければ、特別な個人という枠を越えた後には、いつの日かおのずと衰退してゆくのであろう。
富本の作陶と頒布のスタイルは、今日の一般的な陶芸家のスタイルの、原型ともいえるのではなかろうか。一般的には、公募展という展覧会で手の込んだ作品を発表し名を上げ、頒布会で比較的安価な陶器を販売する一方で、学校 や陶芸教室のような教育の場にも身を置くケースもあるのであるが、しかし、そこには富本のような理念を伺い知ることは難しい。生業のスタイルを模倣しているにすぎないように思われる事すらある。成功者の方法をトレースすることは、賢明な選択であり、同時に容易い事と思われるが、 その理念まで伴わなければ、明治・大正期に工芸が陥った嗜好品的な物品になりかねない。その理念の現れが「模様から模様をつくらず」という創造性なのである。
若き工芸家が富本の元に集ったのは、こうした富本流の生業のやり方にのみ惹かれたのではない。それは増田・田 村両氏が富本のような生業の方法をとらなかった事からも明らかである。田村氏は、量産品の道も自らの手足となるような弟子も求めなかった。増田氏は、96歳となる現在も、日々自身の手で彫っているのである。「良き師、良き友、良き本」が大切と、常々増田氏は語ってくださるが、生活という事も含めて創作の道を示してくれた、良き師である富本 から、それぞれに工芸の道を進んだのであろう。そこには 「富本の求めた美」が通じているように思われるのである。
2010年7月1日
イラスト描いてます。
ちょっと大きいイラストというか横断幕を急ぎでかいてます。
土曜に使うのだけど、描く時間がなかなか作れなくて、
間に合うかどうか・・・
もう1点A3サイズでポスター原画を頼まれているけど、
期日までに手をつけられるか。
金属関係は、注文が1件。
セミがうるさいですよ。
向こうも必死でしょうが。
いつのまにか7月。
今年も折り返しです。
上半期は、それなりですが、
「もうちょっとがんばりましょう!」かな。
もうちょっとテンションあげましょう。
夕方から通常勤務。
3分抜け出して撮影。
土曜に使うのだけど、描く時間がなかなか作れなくて、
間に合うかどうか・・・
もう1点A3サイズでポスター原画を頼まれているけど、
期日までに手をつけられるか。
金属関係は、注文が1件。
セミがうるさいですよ。
向こうも必死でしょうが。
いつのまにか7月。
今年も折り返しです。
上半期は、それなりですが、
「もうちょっとがんばりましょう!」かな。
もうちょっとテンションあげましょう。
夕方から通常勤務。
3分抜け出して撮影。
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