2010年6月30日

お知らせ


沖縄で活動中の鍛金作家鷺谷トモユキさんの個展へ
クーラーのきかない愛車に乗って行ってきました。

「Knock.. .」

2010.6.21 mon - 7.7 wed
13:00 ~19:00 

Design office × Interior shop kufuu

沖縄県宜野湾市大山2−22−18 1F






無題




2010年6月29日

暑い


午前中から入道雲がでています。
暑いです。
でも、冷房の中に長時間いると体調が
おかしくなってくるので、
なるべく冷房なしの生活が望ましい。
暑い中、日陰のない農道をゆっくり進むご夫人。

ちょっといろいろと予定が入っていて、
青い空が恨めしい。

2010年6月28日

ブドウ

ちょっと食べ方まちがっているような・・・

Link

白石修のクリープ現象
http://creepfunk.blog59.fc2.com/

現実からの創作・富本憲吉「模様から模様をつくらず」03

鍛金家関井一夫さんの論文を連続掲載します。

現実からの創作・富本憲吉「模様から模様をつくらず」03

関井一夫 多摩美術大学工芸学科非常勤講師

出典:多摩美術大学文様研究室 [文様・デザイン・技術]2005 より


その1・『新旧の工芸家』

「工芸や工芸家」という概念が生まれる以前、これらの仕事に携わっていたのは職人という職能者である。そして、これらの技術や意匠(模様・形)は、職人の形成する世襲・徒弟制度を通して、師匠から弟子に伝えられていた。徒弟制度は、師匠の生産を助ける代わりに、弟子が技術を習得する、師弟間の契約関係であり、その中では、代々門外不出の技法もあった事は言うまでもない。こうした地域・一門・家で形成される職人社会の中で、それぞれの特性を継承し、産業品としての技術や意匠を守り伝えていたのである。

これに対して明治以降、美術学校という新たな教育制度も工芸技術の伝承に携わるようになってから、職人とは異なる工芸作家という職能者が現れる。学校での技術伝承は、公に開かれたものとなり、労働の代償としての習得という徒弟関係に基づくものではない。工芸技術そのものは、手板・手本の模写を通して先生から習得したが、東京美術学校を例にとるならば、美術学校の存在が、技術の保存と新時代への適応という役割を担っていた以上、殖産の方向に向かうためには、世襲的な旧物の意匠までは、必ずしも伝承するべきものではなかった。

 富本を含め、はじめに記した内藤四郎・増田三男・田村耕一・藤本能道の各氏は、みな東京美術学校(現東京芸術大学)の出身であり、世襲の工芸家ではない。さらに富本・田村・藤本氏は、図案科卒業であり、美術学校で陶芸技術を学んではいない(*3)。田村氏は、美校の先輩である富本の紹介で輸出陶器デザイン研究所設立のために京都におもむき、「デザインをするなら、実際に焼き物をやってみなくてはならないという理由から始めたら面白くなった(田村氏談)」という事情で陶芸の道に入る。富本は、楽焼きから陶芸を始め、幼少時から育てられた素養と、リーチとの交流による研究、職人達の手仕事等から自身の陶芸を独学で作り上げるのである。つまり、美術学校出身の彼等は、世襲という背景をもっていないのである。この世襲という背景は、伝承されてきた技術・意匠と共に、それらを生産し流通させる生産基盤でもある。職人の世界では、技術・意匠と共 に、製造・流通システムがあってこそ生計が成り立っていた訳だが、新興の工芸家は、師匠から受け継ぎ、守り伝えるべき技術・意匠をもたない代わりに、生産基盤も譲られなかったのである。富本のような新興の工芸作家は、世襲という生産基盤を持たない代りに、創造という新たな価値基盤を持とうとしたとも考えられるのである。そして富本の創造は、模様であり図案にむけられたのである。富本は、東京美術学校図案科の教授就任時に、『美術』第8号(昭和19年8月)で、以下のように述べている。「工芸の根本内容は図案にあるのであって、個々専門の技術はそこから生まれる表現手段であると考える。(中略)新しい日本の図案を生み出す力を養うことが、現在最も緊要なことである。(中略)もっと自然から直接図案を学んでいいと思う。 図案即ち工芸が生活的でなければならない。(中略)これ等 のことを思う時、図案力の根本となる教育の重大さを切に思う。」ここには、戦中下の国策としての「日本の図案」の創出という意味よりも、それまでの古典や西洋図案を模倣する図案教育に対する批判が込められている。

明治・大正期の工芸作家達の多くは、新たな価値観としての創造を前面に押し出していたわけではない。『東京美術学校の歴史(日本文教出版)」・第6章・209頁に、当時を表した以下のような掲載文がある。「明治期の工芸界には革新運動は画壇において見られたような時代を画するような革新運動は起こらず、主な発表機関としては日本美術協 会や東京彫工会、博覧会等をはじめ、各分野ごとの団体による展覧会であったが、開発が十分におこなわれなかった。当時宮内省では工芸を保護奨励するという意味で優秀賞の御買上をおこなっており、それは美術界でも同様だったが、工芸界では商人達が暗に御買上による利益を期待して有力工芸家に作品を作らせ、上記のような展覧会に出品させるということが慣例になっていた。明治20年から大正半ばまでこの御買上は盛んにおこなわれ、それに対して工芸各団体はいずれも当局の高官を会頭に頂き、御幸を願い出て御買上を得ようとし、工芸家達もそれを期待する傾向があった。そのため彼らは自らの土台とすべきものを見失い、徒らに技巧を尽くしたものや、古典を模擬して優雅らしく見せたものや、あるいは威厳を示そうとした作品を作ることに力を費やし、庶民的感情をもって愛すべき作品を作ることができなかったのである。(『美の国』第3巻3号、昭和2年4月より)」このように、当時の工芸界は、古典の模擬と華美な一品制作を追い求めるものが主流であった。

富本の美校在学中、1907(明治40)年に文展が開設されるが、工芸は除外され、これに対して、正木直彦(東京美術学校校長)・岩村透(英語・西洋美術史)ら美校教授達による、工芸啓蒙を目的とする工芸団体「吾楽会」が、1909(明治42) 年に作られ、これが工芸界での発表機関、小団体続出の契機となったとされている。このような時代に、富本は美校で学び、渡英し帰国したのである。そして、社会主義思想家でもあったウィリアム・モリスの影響を受けていた富本は、当時の華美な工芸作家の作品を、高価な純正美術のような物として疎んじるのである。

1913(大正2)年の8月の終わりに、創作上の悩みを抱え た富本は、箱根に避暑中のリーチを訪ね清遊する。このとき「模様から模様をつくらず」という信条が芽生えたとされている。一般的にこの時代の工芸図案は、既成の模様に少し手を加えて作り出すか、下絵師が描いたものを使っていた。これは工芸家の善し悪しは、その技巧に求められていたためであった。南画の心得を持ち、留学でデザインを学んだ富本や、版画家であるリーチの、絵付けをした楽焼きが反響を得たのは、こうした当時の工芸家の図案に対して、斬新なものとして受けとめられたからであろう。「模様から模様をつくらず」という事は、既存の懐古的な美術工芸に対するアンチテーゼでもあったのである。また、そこにイデオロギーが存在したか否かは別として、宮内庁御買上という国家、もしくは資産家階級を受け入れ先とした旧工芸界に対して、この時の富本の「創造としての模様」は、庶民 社会に向けられていたのである。

*3陶芸は、1961年東京芸術大学工芸科において開講される。

2010年6月25日

現実からの創作・富本憲吉「模様から模様をつくらず」02

鍛金家関井一夫さんの論文を連続掲載します。

現実からの創作・富本憲吉「模様から模様をつくらず」02

関井一夫多摩美術大学工芸学科非常勤講師

出典:多摩美術大学文様研究室 [文様・デザイン・技術]2005 より

富本憲吉略歴

まずは、富本憲吉自身による「私の履歴書(昭和34年2月・日本経済新聞連載)」等を基に、その生涯を簡単に追ってみる。

富本憲吉は、1886(明治19)年に、奈良県生駒郡安堵町の地主の長男として生まれる。鉄道に勤務するかたわら、中国の文人風の趣味を持ち、南画や漢詩を作る趣味人でもあった父親から、中国陶磁器の知識や習字なども教えられる。

しかし、その父が早くに他界し、12歳で家督を相続する。母方の関係で南画を指南された経験からか、中学生の時に、日本美術院主催奈良絵画展に法隆寺金堂壁画模写を出品し入選する。

富本は、石工に興味を持つが、親類からの反対に合い、祖母の助言も手伝って、東京美術学校の図案科に入学する。数学を得意とした富本は、建築部の学生となる。早々に卒業制作を提出し、室内装飾の勉強、及びウィリアム・モリスの思想(*2)への興味等から、英国に1年半ほど私費留学する。この間ステンドグラスの実技を学び、またヴィクトリア・アンド・アルバート美術館に日参し、多くのスケッチを描く。他に写生旅行や、文部技官の助手を勤めた回教建築調査のためのインド旅行等で、見識を広めた後、1910( 明治43)年に帰国する。

帰国の途にあった船上で知りあった、画家レジナルド・ダーヅィーの紹介で、銅版画に使う鳥の子紙を、安価に求めることができる日本に居住していた、版画家バーナード・リーチと出会う。1911(明治44)年、美校の恩師である大沢三之助の勧めで、清水組に入社するがまもなく退社。このころ、リーチの下宿先の近くの茶碗屋で、楽焼きに絵付けをして拓殖博覧会に出品する。

「当時の楽焼きのきまりきった絵や模様とちがって私たちの描くものに斬新な魅力があったのだろう。」「拓殖博覧会で、いたずら半分に描いた茶碗や皿が、あのように評判を呼ばなかったならば、おそらく、一生陶芸の道を歩むようにはならなかっただろうと思う。」と富本が回想しているように、その楽焼きを新進作家小品展覧会で売ったところよく売れた事が、作陶活動のきっかけだったそうだ。この展覧会のディスプレイや会場用の椅子にも成功し、自宅にアトリエをつくり、木版画・染織・刺繍・革細工・木彫とさまざまな工芸の制作にとりかかる。

1911(明治44)年、楽焼きに興味を持ったりーチが、六代目尾形幹山に入門するにあたり、技法上の通訳も兼ねて付き添ったところ、自身も楽焼きに興味を持つことになる。
1913(大正2)年に楽焼き窯、1915(大正4)年に本窯を築く。早々に作品展を開くが、富本は陶芸については素人同然であった。リーチとの交流の中で、技法上の通訳の為の陶芸技法研究からはじまり、自身のための陶芸技法研究に至ったのである。まずは付近の溜池の底土を素地とし、村の染め物屋から紺屋灰をもらい粕薬として、当初は京都からロクロ職人を雇っていたそうだ。次に、白磁を作るために京都から原料を取り寄せ、研究のすえ磁器ができるようになる。しかし当時、模様のない磁器はあまり売れず、染め付けをはじめる。染め付けの模様は、おりにふれ描いた自身のスケッチからつくる。この頃「模様から模様をつくらず」という姿勢を示したとされている。そして、1921(大正10)年頃には、殆ど総ての陶芸技法に手を染めていたとされている。

1926(大正15)年から1946(昭和21)年まで東京に住む。この間、信楽・波佐見・益子・瀬戸・京都・九谷という窯業地を訪れ、各地の焼き物の研究と、それぞれの土地の焼き物に絵付けを施し頒布会を開く。一方で、民芸運動への参加、国画創作協会への参加から国画会工芸部立ち上げに関わり、帝国芸術院会員となり、1944(昭和19)年、東京美術学校教授就任。しかし、民芸との訣別、1945(昭和20)年、国画会退会・帝国芸術院会員辞任・東京美術学校教授辞任というように、社会的活動を盛んに行うも、終戦を期にその精算をする。

「昭和元年から終戦まで東京で過ごした20年間は、社会の荒波にはもまれ、そのうえ美術界の喧騒の中に身を置いて多事多難であった。だが、その間にも、私はひとり自分の開くべき道を一歩々々、切り開いて行った。」と本人が振り返るように、富本のもう一つのテーマである「良質で安価な焼き物を世に広める」ために量産への道を歩んでいたのである。

その後、奈良から京都に移り、1949(昭和24)年、京都市立美術専門学校教授(翌年から京都市立芸術大学)となり、1963(昭和38)年、同大学長に就くも他界する。京都では富本デザインによる「平安窯」「富泉」という量産品が製造される。また1955(昭和30)年に、第一回重要無形文化財(人間国宝)に指定される。

奈良の生家では窯もなく、焼き物を作るために京都まで通う。戦後の農地改革で田畑を失い「遊んでいては食べていかれない。画を描いたり焼き物をしたりしてほそぼそと暮らした。」「世間が落ち着くにつれ、私の生活もだんだんに改善された。そして小さいながらも市中に一軒を構える事ができた。生活にゆとりができるにしたがい、陶芸の仕事も知らず知らず手のこんだものに移ってきた。大正時代、大和にいるころから、しばしば手掛けたことのある色絵金銀彩も戦後7、8年して、ようやく本格的に取り組むことができるようになった。」と戦後奈良に戻ってからの生活を述べている。1955(昭和30)年に人間国宝に指定された時は、この色絵金銀彩( 図・1)の技術保持者として選ばれるのである。

我が国最初の陶芸美術としての陶器部が開設された京都市立美術大学の教授に就任し、自身の作陶と併せて生活が向上し、同時に若い学生を世に送りだす事となり、制作と製産の双方により充実した道を求めたのであろう。「いま、私は一つの試みをしている。それは、私がデザインした花びん、きゅうす、茶碗といったような日用雑器を腕の立つ職人に渡して、そのコピーを何十個、何百個と造ってもらうことである。」富本の目指した「良質で安価な焼き物を世に広める」仕事は、この「平安窯」「富泉」によって成されたかのようであった。

*2ウィリアム・モリス(1834~1896)イギリスの詩人、デザイナー。
マルクス主義者。アーツ・アンド・クラフツ運動を起す。



続く

2010年6月24日

現実からの創作・富本憲吉「模様から模様をつくらず」01

鍛金家関井一夫さんの論文を連続掲載します


現実からの創作・富本憲吉「模様から模様をつくらず」01

関井一夫多摩美術大学工芸学科非常勤講師

出典:多摩美術大学文様研究室 [文様・デザイン・技術]2005 より

はじめに


「模様から模様をつくらず」、陶芸家・富本憲吉のあまりにも有名な言葉である。工芸家にとってこの言葉は、「既成の模様を写し、安易に模様を作ってはならない」という戒めとして、模様自体の美的価値を追い求める姿勢を促すものとされている。これは、模様というものが、伝統的とも言える永い年月の中で熟成し、完成に至っている美しいものだ、という前提に立っている。この不可侵の模様に対して、自ら新しき模様を創造するために自戒のように発せられた言葉として、創作の道に身を置く者に重く受けとめられるのである。
金属を扱う筆者が、陶芸家の富本憲吉について論考するのは、この文様共同研究報告のためである。「模様といえば富本憲吉」では、あまりにも安直かもしれないが、富本は、近代の工芸家の中でも特別な存在のように思われる。また、実のところ筆者にとって富本は、畑違いの無縁な陶芸家というわけでもなかった。かつて富本のもとに、若き日の内藤四郎、増田三男、田村耕一、藤本能道氏(*1)等といった面々が集い、教えを受けていた。この内藤、田村、藤本氏は、後に東京芸術大学の教授となり、さらに、増田氏を含め彼等は、富本同様、人間国宝に指定されてゆくことになる。筆者は、縁あって田村耕一先生、並びに増田三男先生というお二人の工芸家それぞれから、富本憲吉に関する数々の話を、個人的に伺っていたのである。ここでは、両氏からの逸話も参考にしながら、この言葉に潜伏している問題について論考をすすめる事とする。

*1内藤四郎(1907~1988)彫金家、東京美術学校金工科彫金部卒。人間国宝、東京藝術大学教授。
増田三男(1909~)彫金家、東京美術学校工芸科彫金部卒。人間国宝。
田村耕一(1918~1991)陶芸家、東京美術学校工芸科図案部卒。人間国宝、東京藝術大学教授。
藤本能道(1919~1992)陶芸家、東京美術学校工芸科図案部卒。人間国宝、東京藝術大学教授

続く


追記:増田三男氏 2009年9月8日に死去されました。

2010年6月23日

暑い。

暑い。
アトリエの温度計は34℃を超えている。

入道雲が出ている割に
ぱりっとしない。
晴天だけど、雲割合多し。
もう本格的にセミは鳴いているし、
新しい抜け殻もあちこちで見かける。
セミの羽化を今年はどうしても見たいと願う。
もう何年もほっておいた真ちゅうの器の直しと制作を始める。
真ちゅうは銅と比べると固めで、
叩いたときの音も高い。
耳栓をしないと、夜も耳でセミが鳴いているようになる。
出来立ての銅ナベと採りたてのゴーヤー。
銅ナベの最後の調整で手間取ったが、なんとか納品。
実用物の分野はまだまだ手探りだ。

今日は沖縄は「慰霊の日」。
沖縄戦における組織的戦闘が終了した日。
完全に戦闘が終ったわけではなく、
8月の終戦の日まで散発的に戦闘が続き、悲惨さは増していくことになる。

2010年6月20日

風景探し

娘の学校の宿題の絡みで、風景写真を撮りにいきました。
梅雨明けしたてなので、いくらかさわやかな空気。
本部半島を一周しただけなのですが、
何ヶ所か定番ポイントを廻りました。


入道雲が島沿いにもくもく出ているので、
名護近辺は、晴れ間が安定せず、時折雨もぱらぱら。
SONY W380

さすがに本部半島の先では、雲もなくまぶしい。

SONY W380のスイングパノラマで撮影

SONY W380のスイングパノラマで撮影
名所、轟の滝。

何ヶ所かいっしょに撮影。
暑いから車にいるとか言い出すから、
誰の宿題?といいながら・・・
自宅にもどり、若干の画像補正をしているそばで、
肝心の娘さんは他の宿題をこなす。
てぃだで出力で一応親作業は終わり。
あとは自力でがんばってくれ。

2010年6月19日

梅雨明け


本日梅雨明けしました。
雨も十分降ったので、水不足の心配はしなくていいはず。
あとは大きな台風が来なければ、さらに良し。

撮影の練習


蜂に擬態したようなカミキリムシをみつけたので、撮影の練習をした。

2010年6月18日

展覧会のお知らせ

Ghでの教え子の峰崎陽子さんが所属する
factory zoomer のスタッフ展が開催されます。




ファクトリーズーマー スタッフ+α展

2010 6/26(土)〜7/11(日)

collabon
〒920−0854
石川県金沢市安江町1−14
www.collabon.com

お知らせ

※今週末までこのエントリーがトップページになります。

ギャラリーみんたまあで今週の金曜日にライブがあります。
オキナワンボーイの喜怒哀楽
知念良吉ライブin名護
6月18日(金)
ギャラリーみんたまあ
会場19:30 開演20:00
料金1,500円


ずっと旅をしてきたよ
ひとりぼっちで町を横切り
森をさまよい海を渡り
今 青空の下 あなたとわたし
ひとり在るもの として繋がり
仕組まれた喜怒哀楽の螺旋階段を上り
さあ帰ろう! イタジイの森の明日へ
さあ帰ろう! 世果報の海の明日へ
めぐる命の果てしなき輝きの中へ



そして、津嘉山酒造所でもイベントがあります。

語りと唄三線による構成
ふたつの壕
〜沖縄戦の自 然壕と幻の松代大本営壕〜


2010年6月19日(土)
[場所]津嘉山酒造所
[時間]開場 PM6:00 開演 PM6:30
[料金]1,000円(高校生以下無料)
[お問い合わせ] 090-8660-1269(宮城)
[企画・制作] まぶいの会・京都
[協 力] ギャラリーみんたまあ、名護博物館友の会、津嘉山酒造所保存の会、南風原文化センター

くらしの中に戦さがあった
戦さのなかにくらしがあった
ひとと人との絆があった

京都在住の演劇経験者が集まり、沖縄戦の体験記録を語る「肝苦りさぁ沖縄」を、大阪大正区・関西沖縄文庫で試演させて頂いたのが1997年。その後、夏期に限って京都・大阪を中心に松代のある長野県・岐阜県など約40ステージの上演を重ねてきました。
65年前の沖縄戦の体験記録を読み続けている13年の間に、時代のほうが「肝苦りさぁ沖縄」の語りの世界の方に擦り寄ってきます。
やまとんちゅのやる「沖縄戦の語り」が沖縄の地でうちなんちゅにどのように受けとめられるのか。07年に続く2度目の沖縄上演でも、沖縄の方々の胸をかり、心のより深いところでの交流ができればと思います。とりわけ若い世代の方にも聞いてほしいと願っています。是非お出かけください。(まぶいの会・京都)

[語りの出典]
岡部伊都子 「沖縄からの出発」
「沖縄の骨」
宮良ルリ  「私のひめゆり戦記」
仲本潤宏  「初年兵の沖縄戦記」
外間信子  「白梅学徒看護隊」
林えいだい 「松代大本営」
板倉弘実  「イッチョルはるか」朝鮮人の強制労働
安座間豊子 渡嘉敷島集団死
安里要江  カーブヤーガマで9ヶ月の娘を餓死
岡部伊都子 沖縄開邦高校「石の声」の実践

語り手 池浪教子 岩崎厚子 岡田尚丈 氏田敦 中田達幸 松崎恭子
三線  尾鷲武志
企画  金谷雅之
演出  佐々木しゅう
照明  津田とし子
音響  西川宏
美術  藤原稔
制作  岡田佳美 佐々木公子 分寺裕美

土曜日は、サッカーのワールドカップ日本戦があります。
そっちは録画して、ぜひ津嘉山酒造所へ足をお運びください。

明けそうで明けない・・・


梅雨が明けそうでなかなか明けない沖縄です。
週間天気予報をみると来週には梅雨明けを予感させる、
お天気マークが並んでいます。
雨が続くと、全部錆びていくので、早く梅雨明けはして欲しい。錆とカビは、凄い。
そういえば、沖縄にきて最初にびっくりしたのが、金槌3日放置したら錆だらけになったのと、柄がカビでベルベットになったこと。
湿度はケタ違いだ。
手入れを怠ると
金槌も当て金もたがねもあっという間に
錆びてしまうので
気が抜けない。
作業の合間は、いつも
ずっとさび止めのグリスを塗っている感じ。

ちょっと作業に飽きてきて、逃避ぎみに自然観察など。
菜園でシジミ蝶の交尾に出くわした。

2010年6月16日

着陸

海上保安庁のヘリコプター ベル412のようです。
近寄る間もなく名護市民ビーチの突堤に着陸。数分後飛び去っていきました。
事件事故では無かったようです。

2010年6月15日

サッカーとはやぶさ

サッカー勝ちましたね。
日本 1−0 カメルーン
残念ながら試合を観戦できませんでしたが。
オシムの談話。


個人的には「はやぶさ」が帰って来たこともすごいと思います。
JAXAのスタッフの方達の努力も
なみなみならぬものだったでしょう。

一部報道で、「はやぶさ」をやたら擬人化していて、
技術陣の仕事もプロジェクトXみたいな過剰な情緒表現をしていて、
それはどうなのかなと思いました。

まあ、それはそれとして、
小惑星「いとかわ」の砂塵を
もって帰ってくることができたでしょうか。
楽しみです。
サッカーも次は見逃さないように。
 

はやぶさ、地球へ!帰還カウントダウン

2010年6月13日

20100612

あっという間に6月も半ば。
なにをしているんだか・・・。

天気は回復傾向。
雲は多いが、日差しもまぶしい。
紫外線もしっかりふりそそいでいるはず。

午前中は作業と草刈り。
蚊に刺されまくり。
午後は、PTAソフトバレーボール大会。
2セット目1点差で負けて、
得失点同点でじゃんけん決着。
じゃんけん負けで、試合終了。

手首をちょっと痛めたらしい。
少しずつ痛みが増してきたので、
懇親会は出席せず、
家に帰り、手首の養生。

2010年6月12日

まだ梅雨明けせず

昨日は一日雨。またまた梅雨前線が勢力をのばしてきた雰囲気。
雑用を済ませて作業。
種から育てていたコスモスとひまわりを植える。
内地では秋の花のイメージだけど、沖縄では一年中咲いている。
うまく咲いてくれるか。

チェーンパーツを発注。
パーツごとに買えば安いだろうけど、金具まわりが
ちょっとわからないので、セットものをまずは選ぶ。
それにしても、送料が高い。
少量だと送料の方が高くついたりするので、
まとめ買いになってしまうけど、
そうするとお金がかかる・・・
お試しなのになあ。
これも離島のハンデ?

2010年6月11日

終了


3歳児検診終了。
2度めのチャレンジ。
前回は、眠くて機嫌悪く、
結局なにもせず眠ってしまった。
今回は、時間がかかったが、無事終わり。
虫歯がなくてすごいねーと褒められちょっとご機嫌君。
本人も疲れたろうが、付添はもっと疲れるよ。
覚えてないだろうが、覚えといてよ。
坊主。

2010年6月10日

カタブイ始まりました。

晴れたり、曇ったり、雨降ったり。
雨の降り方が変わってきました。
カタブイ(片降り)の雨。
ざーっと降ってすぐ止む。
局所的にできた雨雲の下だけ降る雨は、
夏の雨。
銅ナベの追加。糸ノコで地道に切断。
コンターマシンあったらいいな。
どこかに落ちてないか。

2010年6月9日

20100609

今朝晴れ。
じわり夏へ移行のようです。
まだ若干の体調不良。
昨日は、
体調不良を言い訳に作業をさぼる。

で、
近場を廻ってみたら、
田んぼのイネに
稲穂ができていた。
もう少ししたら刈り入れか。

ふと、
山の向こうにある雲は、
どの辺にできているのだろうと思い、
島を見渡せる山の上へ。
山の上は意外と視界が悪く、
見通しがきかなかった。

ちょっとうろうろして、
こんなのや

こんなのを見つける。
ノボタンの仲間だと思う。
名前がわからない。
1センチ足らずの甲虫。
ハムシの仲間かな。
ススキの草むらに結構な数。

午後は保護者のグループ懇談会。
父親で参加は一人だけなので、
ちょっとだけ居心地悪い。
夏のイベントの為の案件を一つお願いされる。

そのあと通常業務。体調不良の時はキツイ。
そんな一日だった。

2010年6月8日

20100607

昨日あたりから、季節がスイッチした感じがする。
梅雨明けも近い?
気温はまだ高くないし、雲も多いが、
時々見える青空の抜けがよくなってきている。
体調の方は、下り坂。のど鼻の痛みに加え、
背中の筋肉がきしみはじめている。
ちょっとキツイナ。
ナベは完成。しばらくこのままで使ってもらう。
そのあと、錫引きをする予定。
今日は、午後から坊主の保育園で保護者と担任のグループ懇談会。
そのあと、通常業務が待っている。今日は休みたいなあ。

2010年6月7日

のどがいたい

のどがいたい。
中途半端な気温のせい。

昨日は、大浦の新しい施設に写真展を見に行った。
地元農家の朝取り市もやっていて野菜を購入。
坊主がカツオ〜!といって聞かないので、
小さめのカツオを一本購入。

帰りに瀬嵩の浜へ。
天気がよくて晴れていたら少しは楽しめたのだけど。
水平線には辺野古の岬。
基地を造りたがっている所だ。


作業場にドローイング用に薄いコンパネを取り付ける。
コンクリドリルで下穴あけてビスコンでガーっと止める。

2010年6月6日

降って止んで


降って止んで日が差して、降って止んで・・の繰り返しの一日。
霧雨のようだったり、土砂降りの大粒だったり、
雨自体もいろいろバリエーションをそろえて降っている。
昼過ぎからはかなり強い雨で、おそらく美化作業は延期だろう。
中抜けもありながら作業。
いくつかを同時金工している。
これは明日には完成させよう。

2010年6月5日

いろいろと試行

相変わらず梅雨空。
6月とは思えない位涼しいし。
できれば今日は午後から雨が降って欲しい気分。
でも薄日が差していて、雲の切れ間に青空もあったりして、
一日こんな天気か・・・。

この間の真ちゅうのサンプルを銀でさくっと試作。
柔らかいので、さくさく切れる。切れすぎて微妙に形が変わる。
もっと細い糸ノコ刃にしないといけない。
ずっと前に、糸ノコの刃は慣れたら、細いほうがいいよといわれたっけ。
ちなみに真ちゅうは、ごりごり切る感じ。
銅はそれより粘っこい感じ。
アクセサリーっぽいものを作るときは、
当たり前だけど、
パーツやら、いろいろ気にしないといけないのね。
沖縄にパーツ屋あるのかな。
とりあえず、ネット通販を利用するが、
できれば実物を見ながら検討したい。