2010年2月27日

地震

揺れました。震度5弱!!
関東にくらべ沖縄は地震が少ないので、
かなりびびりました。

2010年2月26日

展覧会のお知らせ


glass house 展
東京国際ガラス学院の卒業生で集まった「glass house」29人によるガラスの作品展です。

2010.3.16(火)〜3.21(日)

GALLERY LE DECO
ギャラリー・ル・デコ 1F・2F
http://www.ledeco.net 


大事な教え子たちです。
教わることもたくさんありました。


展覧会のお知らせ、もう一つ。

glasshouseの卒業生、高澤そよかさん参加のグループ展。



Pepper's Program March 2010
PRIVATE PROJECT IX
のPart1で3人展が開催されます。



Part 1 3/8 mon 〜 3/13 sat

高澤そよか 石曽根めぐみ 加藤順子

Pepper's Gallery
ペッパーズギャラリー

http://www.peppers-project.com

2010年2月25日

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって11

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって11

先輩でもあり、鍛金のスジミチやRAVEPORTEで一緒に活動していた関井一夫さんの学術論文を本人の許可のもとに連続掲載します。

出典:多摩美術大学研究紀要第20号 2005年掲載




2.素材と技術から変わる造形

2ー1.絞りの市民権

「打ち物」という技術は、「鍛冶」の陰に隠れていたように思われる。 「打ち物」の源流品として、正倉院所蔵の「玉虫の厨子」の内側に「銅製押出仏」があるが、これは近代になって再認識された観がある。今日での鍋作りは、絞り加工品の代名詞のように扱われるが、近世までの鍋作りは、主に鋳造品であった。江戸期まで、広い階級層に馴染みがあるのは、鍛冶物であったのであろう。また、武器武具として、面皰・兜といった打物もあるが、 やはり日本刀が主役であった。


「打ち物」が一躍脚光を浴びるのが、明治中期に発表し、国内外で評価された「山田宋美の作品(図7)」である。

我が国の代表的な鍛金技法のひとっに「変形絞り」と呼ばれる技術が在る。これは、一枚の地金(じがね・金属板材料) を、鎚で叩きながら、複雑な立体物に加工成形する技術である。 この技術は、通常の回転体状の器物を打ち出す「円形絞り」に対して、不定形に打ち出す技術として区別している。その「変形絞り」の名人として、東京美術学校鍛金科、明治33年(1900) 第2回卒業生で、後に明治38年(1905)から昭和26年(1951) まで、教官を勤めた石田英一が挙げられる。この「変形絞り」 に至る技術の考案は、金沢出身の山田宋美とされている。



『日本金工史談』と『鎚起の沿革(第一号本)』の、それぞれの書の中に、山田宋美についての記述がある。

要約すると「山田宋美は、鉄を材料とした象嵌器物の製造技術を父から習得して、父と共に、鳥や獣等を鉄材料から、全鎚法という、繋ぎあわせたりせずに鎚で作る技術を、考案した」 というのである。

また、『鎚起の沿革(第一号本)』では「塩田真・大森惟中氏等から鎚起・鎚金という技術名を付けられた」とある。塩田真は、農商務省の役人で1900年のパリ万博にも関わった人物である。大森惟中は、フェノロサの『美術真説』の翻訳筆記者である。また2人とも龍池会(日本美術協会)所属である。当時の権威者達が山田宋美の仕事を「鎚起・鎚金」と呼んだ。しかしながらこの命名は、年代から鍛金科開設以降の事である。

山田宋美の作品が、明治29年(1896)の日本美術展覧会を皮切りに、東京・京都、またパリ万博(1900年)等で紹介され、 高く評価される中、石田英一はその代表作として知られる「銅製群兎置物」(図8)を明治33年(1900)に制作する。この作品は、東京美術学校・東京藝術大学において「変形絞り」の代表物として位置するのである。 山田宋美の「全鎚(まるうち)」は,「一枚絞り」という呼び名として、その後の絞り技法の最も難しい技術とされ、技法習得の目標となる。


図8 石田英一「銅製群兎置物」(出展:展覧会カタログ『工芸の世紀』p.117)


図9 江戸時代丸銅(Cu:99.33%、Au:0.0002%、Ag:0.0085 %、Ni:0.035%、Pb:0.31%、以上99.68%、大石徹氏所蔵)

香取秀眞の「鎚起製の銅佛像」(校友会雑誌:明治38年)の中に、「鎚起鍛金の如き、はたその大作に適へり。(中略)その技術者の、意匠と技倆によりては、優に純正美術と称するものを作る事を得べしと思唯せり。(中略)某骨董屋の所蔵せる支那製鍍金佛の如きは、(中略)五尺有余の坐像にして銅の鎚起制作なりしなり。(中略)此の如く大体は鎚起制作なれども、総てを鎚起製にする如き愚をなさず、自在に他の鋳造製を付着せしめて頗る平気なり」とある。香取は、この仏像自体は大して美術的な意味は持たないが、その制作の考え方ひとつで、大型の彫刻作品になりうる技術であると述べている。これは、現代の鍛金作品の大型化への道を指し示すものでもあるが、同時に、当時の鍛金家が、総て鎚起で制作する事を美徳とする、技巧偏重に至っていた事も示している。「一枚絞り」という困難な技術が、その困難さ故に賞賛され、同時に造形の展開の可能性を、結果的には遅らせたとも言えるのである。

註:(11)内容はほぽ同じなので、「日本金工史談」を中心に紹介し、「鎚起の沿革(第一号本)』にのみ記述されている部分を付加する。
「金工史談続編」において香取秀眞は「明治四十五年三月その家系を問い合わせたるをもととして、後また門人黒瀬宋世氏に就て補ふところの略式」と記した後に「家祖家正慶長年間始メテ刀匠を業トシ山口玄蕃二仕へ加州大聖寺現住地ヲ拝領ス。(中略)ハ代永世文化元年二生ル。専ラ甲冑及象眼鎧ヲ作り前田家ニ仕ヘテニ人扶持ヲ給セラル。九代宗光天保二年二生ル。維新以降従来ノ業務癈タルを以テ更二鐵地象眼ノ器物ヲ作ル。明治十四年第二囘内國勧業博覧會二出品シテ銀賞ヲ受ケ、同二十六年米國シカゴ萬國博覧會二出品シテ優賞を受ク。(中略)十代長三郎宋美明治四年二生ル、父二就テ象眼及鐵鎚起ノ法ヲ修ム、爾來研讃ヲ重ネ父子協カシテ明治二十四年ヨリ同二十八年二至ルノ間二於テー種ノ全鎚法ヲ案出シテ成功セリ。道具ノ重要ナルハ鎚ト「ナラシ」トニテ打込ミ打出シヲ主トセリ。明治二十九年日本美術協會二菊水式瓶懸ヲ出品シテ宮内省御買上ノ光榮二浴ス。同三十八年日本美術協會委員ヲ嘱託セラレ、同四十一年同會審査委員二擧ゲラル。大正三年東京大正博覧會審査官ヲ嘱託セラレ、同四年日本美術協會第五部委員ヲ嘱託セラル。同五年三月十五日四十六歳ヲ以テ歿ス」とある。
「鎚起の沿革」において、編者の藤本長邦は「明治中期に加賀の大聖寺に山田長三郎あり、面頬師と称する家柄の末期の人にて鉄にて頬当等を作る工人の流れをくむ人なり。花瓶香炉等を作る以外鳥獣等鉄を用いて作るを得意とす其作風は精密なるを避け、極めて簡素にして要領を得、画法を以て言うなれば墨絵風のものにて鎚起の本分たる鎚目を大胆に生かした奔放な手法は、 賞賛にあたいす。(中略)博覧会共進会等に尽力された塩田真 大森惟中氏等により鎚起、鎚金の名称を附せられたり」とある。


続く

2010年2月24日

コンナヒモアル

洗濯物干して、
学校行って
生徒の作品をもってきて、
片づけして、
印紙買って、領収書発行して、
もう一件領収書発行して、
お金受け取って、
記念ボトル4セット購入して、
昼食食べて・・・
作業場ちょっと掃除。個人面談忘れていて。
作業、個人面談でちょっと緊張。
作業、電話、電話、電話・・・
作業させてくれ!と叫びたい
で、
お迎え、
夕食、
3歳児、寝かせようと
絵本読んでいてこっちが爆睡
そのため会合もすっぽかし、
作業しようと思っていた・・・のに
心に決めたノルマは達成できず。

夜中に起き出して
今年度の成績と
来年度のシラバス作成。
締め切り間際。
メールで送って、
一安心。
眠れずグダグダ。

こんな日もある。
夜が明けたらフル回転で
作業する・・・はず。

2010年2月23日


作業場の裏がいつのまにか一面花園になっています

夜からすごい雨になりました。

2010年2月22日

展示終わりました

 
無事展示も終わりました。
ほかに類似した作品がなかったので、
広いスペースを使わせてもらいました。

 

作品自体は、ずいぶん前に一度発表した作品ですが、
こちらでは、まだ公開したことがないので、
いい機会!ということで出品しました。
見直すと2002年ですね。

新作を作らなくては・・・

会場の外では、シロツメクサが花を咲かせていました。




 



風もなくビーチも穏やか。
まだ泳ぐには早すぎですが、泳ぎたくなります。
そして、穏やかな日には穏やかな夕日

2010年2月21日

今週のお酒

今朝は、太陽の光がさんさんと降り注ぎまぶしい。
昨日も暖かかった。また春が確実なものになりました。

一昨日ひさしぶりに深夜まで友人たちと飲んでしまい、
昨日は体調不良で作業ができませんでした。
寝不足とアルコールのダメージはキツイです。
作業できなくなるのがもっとつらいです。

家で飲む分には、量をコントロールできるのでまだいい。
今週のお酒は「美しき古里 淡麗」今帰仁酒造です。




すでに半分になってますが。
さっぱりして飲みやすいです。

2010年2月19日

展示台

相変わらず天気が悪い。
気温も低め。

昨日は、さくっと展示台を制作。
明日、明後日展示があるのでそのために。
もうちょっと凝ろうかとも思ったが、
シンプルなものにした。

展示のあと別のものに流用する予定もある。
この台に乗る作品は、だいぶ前に作ったもの。
気に入っている作品だけど、
一度しか展示していない。

この後、塗装。
そして、今日夕方搬入である。

 1月に設置した街灯。
さくら祭りのときに撮影した風景です。
名護市の中心市街地は、報道で全国的に知られたシャッター街。
それでもなんとかしようとがんばる
通り会のからの依頼で制作した。
明かりとオブジェ一つでなんとかなるものでもないが、
少しでも一助となればと思う。



ホワイトアウト:真保裕一著:読了 ○○○○

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって10

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって10

先輩でもあり、鍛金のスジミチやRAVEPORTEで一緒に活動していた関井一夫さんの学術論文を本人の許可のもとに連続掲載します。

出典:多摩美術大学研究紀要第20号 2005年掲載

1-9.鍛造と鎚起

 物や技術は、需要により増減する。需要が無くなれば、ものは残るかも知れないが、技術は消失してしまうものなのである。 分類や体系作りは、普遍性を目指し、合理的に行われるものである。金属工芸の分類、特に「鍛金」は、西洋型分類として体系付けられているようであって、その実、西洋型分類風に作られているだけだったのである。

「鍛」という漢字の語源を引けば、確かに「鍛金」として包括的な技法名ともいえる。(8) 「冶」という漢字には「人工で調整する意」があり、“鍛冶は、金属を叩いて作る”意味とする事もできるのである。

部民制での「鍛冶部」、律令制での「鍛冶司」も「鍛」選びの由来と考察できる。律令制での「鍛冶司」は、鉄に限定せず、銅でも雑器をつくっていたようであり、そこでは金属を叩いてものを作る総称として「鍛冶」を用いたと考えられる。そして、刀剣類は、国家戦略として「造兵司」で、武器として製造され ていた。しかし、刀造りは「刀鍛冶」という職能となり、「鍛冶」の代表が「鉄を叩いて作る仕事」となり、「鍛冶=鉄を叩いて作る仕事」となったと推測できる。当初の「鍛冶」が純粋 に金属を叩く仕事の総称であったとしても、既に言葉の意味は変わってしまっていたのである。

「鍛金」と命名する際、「鍛」の採用については,歴史を紐解き、世間の職能も照らし合わせ、「鍛」を選び出したとしても、技法の普遍的な分類体系上での最も重要な点、つまり“金属を叩いて加工成形する技術には、2つの理路がある”事を落としてしまったのである。もし、2つの理路を理解した上での命名であるなら、そこには、日本刀に対する命名者の特別な思想を「鍛金」に封じ込めたと考えられるのである。

型に熔湯を流し込み、凝固させる技術である「鋳金」は、言い換えれば、原型を金属に置き換える技術なのである。故に原型に対する「鋳型(いがた)」の制作方法が、問題であり、そのような意味では、原型づくりは鋳物技術の範晴外ともいえる。これは西洋のブロンズ彫刻において、彫刻家と鋳造家が分離している事からも明らかである。鋳造技術を中心に据えた原型という観点からは、量産の為に鋳造しやすい原型作りという、工業的な方向が見えるのである。

一方「鍛金」は、金属を直接変形させる技術である。模型というものは存在するかも知れないが、原型というものは存在しない。そして、直接的に金属を変形加工するが為に、大きく2 つの理路が生まれていたのである。それが“鍛冶物と打ち物” であったのである。

東京美術学校鍛金科開設の後、打ち物に“鎚起(ついき)” という名称が付される事になる。「鎚起」命名についての詳細は、2-1.「絞りの市民権」で後述する事にする. (9)



図6鍛金技法分類

香取秀眞は、『金工史談』の中で、「鍛金」を「鎚起鍛金」と 記している。また『日本金工史』の中で、「打ちもの(打物)」として「現在の鍛金」に当たるものを示しており、文中で「鍛金」という呼称は用いていない。むしろ「鍛造」を「鍛冶」の 技法とし、それらを指すものを「鍛金」というニュアンスで扱 っている。ゆえに、「打物」と「鍛金」の2種類の技法を総称する名称として、「鎚起鍛金」と記しているのである。また他の項では、「鋳金」「彫金」とはしながらも「打物」としている。 更に、同じく「第一章・金工の各名称及び種類」の中で、「鋳物」「彫りもの」「打ちもの」としている。香取秀其は、「鍛金」 では括りきれない、もうひとつの技術が有り、それにこだわり 「鎚起鍛金」「打物」としていたのである。現在では「鎚起」は、絞りとは別の技法として、平盤な鉄床と金槌を使って、立体状に打ち上げてゆく技法とされている事が多い。

これらからの総括的な検証として、下記のような分類名称を提示する(図6)。「鍛金」という名称は、「鎚起鍛金」「鎚鍛金」 としたいところだが、言葉としての「鍛える」という意味ではなく、漢字としての「鍛」の源を尊重し、また今日社会的に認知されている事柄として「鍛金」であるとする。そして、塊材を用いる技法と、板材を用いる技法に大きく二分し、「鍛造」「鎚起」とする。金属材質からの分類は成さず、必要とあれば、 技法の頭に金属名を付するものとする。更に、現在鎚起と呼ばれている技法は「打ち起し」とし、凹型にあて成形するものを、 「押出仏」から引用し「押し出し」とする。また「凹型を用いない押し出し」を「突き出し」とする。「打ち出し」は、鎚起と同様な意味合いとする。また塊材と板材の定義は、この技法が工芸分野のものである点から、人力による加工可能範囲でのものとして区分する。

使われなくなった言葉を「死語」と呼ぶが、今生きている言葉も、現在使われている意味合いと、過去使われていた意味合いが、同じとは限らない。文字上は同じでも、意味上は異なる部分が存在するのである。まして、「或る言葉(概念)」が生まれた以前の事象も含めて、「新語」で表すならば、必ずしも包括できない事柄もあろう。

言葉は生きものであるから、時代と共に変化する。ある意味表現内容が拡大する事もある。しかし、その臨界点を越えた時に、技法名称の賞味期限が切れるのであろう。我々は、とうに賞味期限の過ぎた技法名称の中にいるのかも知れない。だが、革新的に創造する者や、造られた物は、何も枠の中に収まる事を求めているのではない。時はすでに、鋳・彫・鍛の技法分類を横断する造形が生まれ、また鍛金技法で作られた物が、工芸ではなく彫刻ジャンルに入っている時代なのである。


図7山田宋美[鉄打出瓦上に鳩置物](出展:展覧会カタログ「鉄打出 山田宋美の世界展」p.17)

註:(8)「鍛;[解字]会意形声。段は、上から下へとおりる階段。鍛「金+(音符)段」で、上から下へと金属をたたくこと。[意味]1 きたえる(きたふ)。金属を トントンと上から下へたたいて質をよくする」

註:(9)明治30年、東京美術学鋳金科卒業。同学鋳金・金工史教授(明治36-昭和18 年)

註:(10)「第二節一打ちもの:或種の金属を鎚鍛し展延、伸縮せしめて制作する方法で、其作品には佛像、銅錫、花瓶、香爐、鉢、盆、皿、花盛器、巻煙草入れ、香凾、薬罐、銀瓶、銅壷、人物動物等の置物がある。別に鍛冶としては、刀剣、 鉈、庖刀、小刀、菜刀、鉞、斧、鍬、鎌、鋤、鉋等鋼鉄を以て刃物をつくる。本書に於ては此等刀剣類の鍛造に就ては多く述べないこととする」(香取秀真「日本金工史」p.2)


続く

2010年2月17日

雑用というけれど

昨日も、曇り、雨、曇り・・・
気温も低く、寒い一日。

通常業務は、休みなので
心置きなく作業、というわけもなく、
雑用をこなしなてから後、作業。

雑用というと、どうでもいいことのように思えるが、
日常生活を送るうえでは、たいせつなこと。
創作していくためにも、
雑用こそ、丁寧につみあげて
いかなければいけないことだ。
雑用などといって軽くあつかってはいけない。

制作の過程でも、雑用と思うくらい単純単調な作業もある。
その過程をめんどくさいと、いい加減にすると
完成度はあがらない。
時間がかかるように思えても、
かえって早くできることの方が 多い。
いい加減にすると、直しを入れるところが増え、
結果的に時間がかかるのである。
でも、時間を短縮することは大事である。
短縮した時間でまた、様々なことができるからである。


というわけで、鏨を3本作った。
左側手前の3本がそれ。
どのくらい時間短縮になったかわからないが、
できることは増えた。


作業は、もしかしたら終わるかもと思えるようになってきた。
まだまだ先は長い。

2010年2月16日

終わらない〜

今日も朝から雨です。
肌寒いです。沖縄気温ですが。

まだまだ銀の仕事が終わりません。
これは、魚のパーツ。
こんなのが約80個。
それぞれ、ヤスリがけをしないといけないし。

終わるのだろうか。

2010年2月15日

雨の日曜日

昨日は、あいにくの天気の中、
名護ハーフマラソン。

 作業場の前の通りは、ハーフマラソンのコース

 
 

展覧会のお知らせ

第20階名護市文化祭
2月20日〜21日
名護市民会館

なご工芸市
【出店者プロフィール】
多くの工芸家が自然豊かなやんばるで創作活動を行っています。第20回となる文化祭では、9名の方に参加してもらい、小さな工芸市を開催しました。作品を実際に手にとってもらい、身近に感じてもらえたらと思います。文化祭では、広く北部・やんばるで活動する方々を紹介していきたいと思います。

仲村 勇 なかむら  いさむ(名護市許田)
1985 名護市許田手水焼基礎作りに貢献
1998 許田に丸勇陶房移転
2000 沖縄サミットプレス会館にて、シーサー作り実演
2000 第27回やんばる展運営委員の推薦受ける
2008 英国大英博物館に「抱瓶」が収 蔵される
2009 名護博物館へ「嘉瓶」贈呈

仲宗根隆明 なかそね  たかあき(名護市古我知)
1946 名護市饒平名出身(旧屋我地)
1974 古窯古我知焼窯跡近くに工房をかまえ、初窯をだす
以来、現在の暮らしの中で使えるものを
考えながら、制作しております
古我知焼きより http://www2.bbweb-arena.com/kogachi/

玉村 ヒロ たまむら  ひろ(国頭村宜名真)
1978 松島製陶所入社
1984 那覇市真地にて独立
1993 糸満に工房移転
1996 沖縄県優秀技能者賞受賞
1997 安谷屋正量賞受賞
2005 宜名真に「あすもり窯」設立

山上 學 やまがみ  まなぶ(大宜味村田嘉里)
1959 大阪市に生まれる
1981  京都工業試験所陶磁器科研修生修了
1984  インターナショナル美術学校版画科卒業
1986  茨城県笠間市にて独立
1989  栃木県茂木町に工房移転。 屋号を「蛍窯」とする
2004  沖縄県大宜味村へ工房移転
展示会を中心に工芸、美術活動を全国各地で展開
http://www.ne.jp/asahi/hotaru/ym/

金城 修 きんじょう  おさむ(大宜味村喜如嘉)
1957 コザ市に生まれる
1987  オサム工房を開設
1992  くまもとくらしの工芸展入選
1999  丸善「沖縄の工芸展」、沖縄三越でグループ展
2001 沖縄三越「木語り二人展」、長崎「沖縄クラフト展、丸善で素地の物展
挽物の椀、皿などを漆で仕上げた器を製作。生活 雑器として
日々の暮らしの中で使っていただける 器を目指しています

永嶺 慶太 ながみね  けいた(本部町渡久地)
1967  神奈川県生まれ
1991  明治学院大学卒業と同時にNHK番組美術 担当。「ためしてガッテン」12年担当
2006  本部町へ移住
2007 「ゆいむん工房」設立。
2009  ウッディフェアにて実行委員長賞受賞


かめい太由真 かめい  たゆま(大宜味村喜如嘉)
1967  埼玉県生まれ
1998  東京から沖縄へ移住
2004  沖縄ウッディグランドフェアデザインコンペにて、沖縄県総合事務局長賞を受賞
現 在  大宜味村在住 名護市に工房をおく
飽きのこないシンプルなデザインで、使うほどに 愛着のわく家具を、
そして人と環境にやさしい作品づくりを心掛けています

中村 佳子 なかむら  よしこ(東村有銘)
神奈川県出身。旅行中に出会った琉球藍に魅せられ1999年沖縄に移住。
やまあい工房にて琉球藍による染織を基礎から学ぶ。沖縄県工芸指導所にて沖縄の伝統織り、
絣織と紋織の技術を習得。
2005年から東村在住。自宅にて作品製作、展示会やイベントでの展示販売を中心に活動中

屋比久ちひろ やびく ちひろ(名護市宮里)
1985年名護市生まれ。小・中の七年間、九州と大阪にて過ごす。
読谷高校卒業後、名護に戻り祖母の指導のもと、草木染めの修業を始める。
2007年、沖縄タイムス「私のビジョン21」に掲載。
現在、沖縄草木染めアーティスト*ChihiRo*として、個展やファッションショー、
小中学校での草木染め体験授業、イベントなど県内外で活動中

2010年2月14日

展覧会のお知らせ

topnoch の田中福男さんの展覧会が開催されています。


 
Glass Works TOPNOCH Exhibition
2010.2.11〜21

蜻蛉玉ばぶるす
東京都杉並区高円寺南2-22-6 竹田ビル1F

あけましておめでとうございます

明けましておめでとうございます

旧正月です。

沖縄では、以前ほどではありませんが
旧正月のお祝いをします。
地域によっては、旧正月のほうが重要な行事となっています。

学校や仕事が休みになるというわけではないので、
お正月〜!!という雰囲気が漂うわけではないです。

年末年始の慌ただしさにおわれて年賀状を作りそびれていたので、
大慌てで作って投函しました。
そろそろ届いているのではないでしょうか。
使った画像は、先日、お花見ランチに行ったときに
撮影したナングスクの緋寒桜です。
もう盛りは過ぎていたので、
いい感じに咲いている花を探すのに一苦労しました。

半年くらい前に、住所録のあったハードディスクがクラッシュ
してしまい、4年位前のバックアップファイルを使用したので
住所がわからない人も何人かいます。
これから探し当てないといけません。

昨夜は、旧暦では大晦日、沖縄ではトゥシヌユル。
漢字で書くと「年の夜」。まさに大晦日です。
たまっている仕事を片づけに通常業務終了後に作業場へ。
ちょっとだけ進行。3%くらい?

2010年2月12日

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって09

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって09

先輩でもあり、鍛金のスジミチやRAVEPORTEで一緒に活動していた関井一夫さんの学術論文を本人の許可のもとに連続掲載します。

出典:多摩美術大学研究紀要第20号 2005年掲載


1−8.焼きを入れる

少々物騒な言い方として、「焼きを入れてやる」という表現がある。赤く熱した鉄を水中に投入する時の、激しい熱放出の様や、そこから連想する家畜に熔印を付ける様子から、物騒な表現に転位した言い方であろうが、「焼き入れ」とは、鉄を急冷して硬度を高める、熱処理技術の事である。この「焼きを入 ゙ れる」事も、非鉄金属にはない、鉄の素材特性である。

炭素鋼を加熱して、変態点以上の高温での「オーステナイト組織」状態から急冷すると、「パーライト組織」とならずに、「マルテンサイト組織」という非常に硬質な組織に変移する。この特性を利用したのが、「焼き入れ」である.。単一結晶の銅等では、組織変態が起きないので、「焼き入れ」はできない。つまり銅は、急冷しても硬化しないのである。鋼の急冷状態でできたマルテンサイトは、非常に硬質であるが脆い組織である。その為、250°C程度に「低温焼き戻し」を行う事で、実用硬度を得る事ができる。

金属工芸の分野では、この焼き入れ・焼き戻し温度は、加熱された金属の色を見ながら判断する。先の再結晶温度の目安である、赤色から赤橙色になったあたりが、マルテンサイト状態であり、その状態を視認して、急冷するのである。また250°Cくらいの「低温焼き戻し」状態は、鉄がキツネ色に変化するあたりなので、酸化被膜を除去してから加熱し、その色を視認して終了するのである。 このように金属工芸の分野では、科学的な合理を五感の感覚で実践する事が多いが、これは伝承された経験則を、後から科学的な法則に照らし合わせることで理解できるのである。

以上1−6.から述べたように、鉄と銅は、金属物質として大きな違いがある。更に、ひとつの技術を特化して修練する職人技術は、高度に専門化しながらも、それ故に孤立した技術とも言える。「銅等の金属板材料を成形する技術(鍛金)」と「鉄塊材を成形する技術(鍛金)」が、職人という専門家技術であったなら、東京美術学校での「鍛金」は、2種類の異なる個別な技術として始まったのであろう。また主任教官を、絞り技術の専門家として授業を開始した以上、絞り技術に特化する傾向は、この時に始まり、鍛冶仕事のイメージとは、どこかで折り合いのつかぬまま、鍛金造形は進んだのである。

2010年2月11日

夏日

昨日は、暖かかった。というより暑い。
温度計をみたら26℃。いつのまにか夏日。


一昨日の夜には夏の集中豪雨のような雨がふりました。
ちょっと季節先取りしすぎ。

暑くなってくると、うっとおしくなるのが蚊。

これが活躍し始める。

 

新しく作業場として使わせてもらっている
家の床の間にこんなナイスな掛け軸がかかっている 。



とても絵が○○なんだけど、味があるというか。
それよりもモチーフがおもしろい。
鍛冶風景なのである。

 
鞴や火床、金床、炭の俵 などなど。
よくみると、鍬や鎌、銛なども描かれているので
刀鍛冶ではなく、野鍛冶だ。
聞くと、この家はずっと以前は鍛冶屋だったということだ。
いまでは面影もない家であるが、
自分の仕事を考えると、なんとも不思議な縁を感じる。

2010年2月10日

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって08

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって08

先輩でもあり、鍛金のスジミチやRAVEPORTEで一緒に活動していた関井一夫さんの学術論文を本人の許可のもとに連続掲載します。

出典:多摩美術大学研究紀要第20号 2005年掲載


1-7.鉄は熱いうちに打て

金属は、叩くまたは曲げる(加圧する)事で、結晶面のすべりが起こり塑性変形し、この塑性変形と共に硬化する。これを加工硬化と呼ぶ。加工硬化した金属を加熱すると、再結晶し軟化する。これを「焼きなまし(焼鈍)」と呼ぶ。鍛金は、この加工硬化と再結晶軟化を利用して、成形する技法である。

再結晶温度以上での加工を「熱間加工」、再結晶温度以下での加工を「冷間加工」と言う。熱間加工では、加工硬化と再結晶軟化が同時に起こり、硬化は緩和されるので、大きい加工率を一度に与える事ができる。一般的に視認状態で金属を加熱して、赤色になっている状態は、金属温度として、各金属の融点の2分の1程度の再結晶軟化している状態であると言える。

鉄は、再結晶温度の状態で「面心立方晶」状態に組織変移しているので、可塑性に富んだ状態にある。そして金属温度が下がると、硬質な「体心立方晶」状態に組織変移する。

「鉄は熱いうちに打て」とは、「銅等は、単一結晶相なので、 熱間状態でも冷間状態でも、面心立方晶状態であるから、変形は容易である。しかし、鉄は熱間状態の時のみに、面心立方結晶状態にある為、大きく変形する事が可能になる。ゆえに“熱い=赤い”状態の時に加工しろ」という事なのである。


続く

2010年2月9日

晴れ

昨日は、長く続いた雨が止みました。
曇りがちでしたが、晴れ間ものぞき、
風も湿り気を含んだ暖かいものでした。
もう春です。
夜も長袖Tシャツでいいし。


お昼に職場の同僚とナングスクへ花見ランチ。
去年はヒカンザクラが満開だったので、


今回も期待していたのですが、
前日の強風と雨でだいぶ花が落ちてました。

時期も数日遅かったようです。
 

花はいまいちだったのですが、
代わりにいろいろな鳥が観察できました。



うぐいす


ズアカアオバト
あと、コゲラやらメジロやら
楽しめました

2010年2月8日

今日も雨、雨

昨日は、一日雨。寒いです。風も強いです。
午前中は、上の子の学習発表会で、小学校へ。
体育館はさらに寒かった。

午後は、作業場で作業。
通常業務は休みなので、
とりあえず思いきり作業ができた。

全体の進行状態は30%くらいか。
進行状態は全体の三分の一弱というと30%より
作業は進んでいる気がするのは、気のせいか?
パソコン仕事も同じくらいの進行。
今度の日曜は旧正月。ということは、
仕事は、現在年末進行ということになる。
忙しいわけだ。

今日は職場の人たちとお花見ランチがある。
晴れてほしいとまでいわないが、せめて雨がやんで欲しい。

2010年2月6日

小物量産

寒いです。といっても15℃くらい。
せっかくのサクラの季節ですが、
ずっと天気が悪く
花見にいけません。
そろそろ、最盛期のはずだけどなあ。
仕事もいそがしいから時間も作れないが。

ここのところ昼間は金工仕事、
夕方から通常業務、夜はパソコン仕事と、
たてこんでいる。
金工仕事とパソコン仕事は納品できるのか?
というくらいなかなかすすまない。
どちらも慣れない仕事で、
作業時間も細切れだし、
技量がついていかないのである。
こればかりは、地道に時間かけて続けていくしかない。
こんなものを作っています。
まだ途中。
数もあるのでどうなることやらです。
銀なので、今まで使っていた作業場を使っていない。
掃除を徹底的にしても鉄粉が出てきて、悪さをする。
気付かずにたたいたりして銀に食い込んでしまう。
作業になれて、いろいろ見えるようになると途端に気になる。
で、また掃除をする。
それでも鉄粉は出てくる。
掃除の無限地獄がつづきます。
きりがないし、精神衛生的に悪いので
今回は作業場を移動しました。
今のところ、それほど気を使うことなく作業してます。
作業時間を確保できないのが課題。

2010年2月5日

Link

GlasHouseリンクです。
このブログなあまりにマイナーなものだからだれもみていないという前提で、個人的な覚書としてリンク集をつくる。

topnoch:バーナでいいもの作る、田中福男君のサイトです。

glass studio atelier K :ながらくGhを支えていたスタッフのひとり、海藤さんのサイト

山田輝雄 glass works:同じくGhを支えたカットのエキスパート輝さん

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって07

金工の埋蔵物 「湯床吹き」と「鍛金」をめぐって07

先輩でもあり、鍛金のスジミチやRAVEPORTEで一緒に活動していた関井一夫さんの学術論文を本人の許可のもとに連続掲載します。

出典:多摩美術大学研究紀要第20号 2005年掲載


1ー6.鉄と銅

モノを作るには、「何を(目的)・何で(素材)・どうやって(技術)」という3つの命題が重要であろう。「鍛冶物」と「打ち物」は違うと述べているが、決定的な違いは、同じ金属でも組成が異なる素材にこそある。少々難解だが、金属工学的に鉄と銅について記述しなければならない。
 金属物質を構成する原子の集合体である結晶は、複数の結晶格子に分類されており、銅等と鉄とでは結晶格子が全く異なる(図4)。銅等は、固体状態で可塑性に富む「面心立方晶」の単一結晶相であり、鉄は固体状態で「体心立方晶」と「面心立方晶」の2種類の結晶組織を持つ。この両者の違いは、同じ金属族ではあるが、全く別物と言ってよい。鉄は固体相状態における温度帯により、2つの性格を持つ二重人格なのである。
 固体金属を材料とする鍛金において、その成形加工上、最も問題となるのは、銅等と鉄の温度帯における「結晶格子の違い」である。
 金属工学上、鉄は複雑な金属である、鉄は「固体相状態における温度帯により、2つの結晶格子を持つ」と記したが、この結晶格子には、それぞれに、固有の組織名称が与えられている、100%純鉄の場合、体心立方晶の組織を「フェライト(ferit:e):(a-Fe)・面心立方晶の組織を「オーテスナイト(austenit:e):y-Fe」・熔融前の高温での体心立方晶組織を「デルタフェライト(δ-ferrite:δ-Fe)」と呼ぶ(図5)。
 更に、炭素鋼(鉄鋼)の場合のフェライトは、炭素の含有量により、「フェライト組織」から「パーライト(pearlite)組織」 に移行する。更に「パーライト組織」の温度帯でも、複雑な組織状態が存在する。鉄は炭素の含有量が増すごとに硬度は高まるが、同時に靭性(じんせい・粘り強さ)が失われる。


図4 代表的な金属結晶の単位格子(左:体心立方晶、右:面心立方晶)


純金属の平衡状態図(金・銀・銅のP-T図)    鉄のP-T図
図5 純金属の平衡状態図・鉄の平衡状態図(出典:西川精一「新版・金属工学入門Jp.35」

 鉄は我々の生活の中では大変身近な金属であり、実に多様な金属でもある。鉄・鋼(はがね)・ステンレス等があり、一般に鉄と呼んでいるものも、微量な炭素を含む炭素含有鉄(炭素鋼)つまり鋼で、我々のまわりの鉄と呼ばれるものは、殆どが多様な鉄合金である(7)。鉄を鍛えるという意味合いには、この炭素含有量が関係する。炭素量の多い銑鉄は脆いので高温で加熱しながら打つ事で、脱炭する事ができ、炭素量の少ない鉄は、 炭で高温に加熱し、浸炭する事ができる。炭素量の調節により、 適度な硬度と靭性をもつ鋼ができあがる。これが鍛冶屋の仕事の中で行われる、形を作る行為とは別な、金属そのものを打ち鍛える行為なのである。

註:(7) 鉄の金属工学上の定義は,「Fe-C系2元合金において、フェライトの炭素最大固溶量(0.002[mass%])からオーテスナイト炭素最大固溶(2.14[mass%])の範囲にある部位を鋼と呼び、炭素含有量0.002[mass%]以下を鉄、2.14[mass%]以上を鋳鉄(銑鉄)」である。




続く

2010年2月4日

終わらない気がしてきた

昨日は、曇天。おそらく今日も。
微妙に寒く薄着で作業していて、風邪気味。
午前中には注文していた材料も届いた。 いよいよ追いつめられた気分と、わくわくする気分の半々。

今回制作するもののパーツ。
このパーツはとりあえずこのくらい。
でも、それぞれに7つパーツを切り出して、鏨で彫って、ヤスリかけて、とか考えると、終わらない気がしてきた。
通常業務から、急な仕事も入ってきたし。これはギャラもでないし明日明後日までという期限付き。これもできるかなあ。
だいじょうぶか〜俺!という心境で、工房整備は後回し。

とにかく手を動かして仕事していくしかないだろう。

2010年2月3日

いつのまにか・・・

天気が悪いです。時々、春先特有の湿度の高い風も吹き始める。

仕事が立て込んできました。
おまけに年度末突入で、確定申告の準備も始めなくてはいけない。
保育園の手続きもあるので、早々に提出しなければならいから、気が重い。
確定申告用に会計ソフトを新しくしなければならないが、選ぶ決断ができないでいる。

いつの間にか2本目が空になりそう。
そんなに呑んでいるわけではないけど。
久米島の久米仙ブラウンボトル。
沖縄ではよく飲まれている銘柄の一つ。
久米島の久米仙

居酒屋で迷ったらとりあえずこれを頼むことも多い。
無難な路線か。